こういう考えがある。
男女の関係というもの、性欲とか結婚というものは、ほんらい人間の快楽のために存するものではない。(社会の)役に立つ人間を増やして、その国土をよくするためにすることだ。だから、悪い子供を産むのはいけない、肉体も精神も、これならという人間だけに限って結婚をさせ、子供をうませる……その他の人間には、結婚して子供を産むことは許さない。
どこかで聞いたことのある優生学的な理論のような気がする。
男子は二十一歳から、女子は十九歳から、性交が許される。二十七歳まで童貞を守れば名誉として表彰される。
一方、性交年齢に達しないうち、どうしても性欲に堪えられない早熟者には、かねてその旨を定めている媼(ばあ)さんなり、役人なり、或いは医者なりに申し出ると、これもかねて選定してある石女――すでに妊娠中の女を提供してその満足に供する。
十九歳以上の女子、二十一歳以上の男子、身体、精神ともに健全で、出産の有資格者は、週に二回だけ同衾が許される。その際には男女ともに沐浴して、『すこやかにして美しき子を与えたまえ』と神に祈らなければならぬ」
このままナチスの優生思想をつよく連想させるが、じつは中里 介山の『大菩薩峠』の終章に近い「農奴の巻」に出てくる。
興味があるのは、この優生論が出てくるすぐ前の章で、盲目の剣士、「机 龍之助」は「お雪さん」と小舟に乗って、潮に流され、死にたいと願う「お雪さん」の首を平然と絞めるシーンが置かれている。
『大菩薩峠』は、明治45年に書きはじめられ、継続的に発表されたが、昭和9年に、中絶している。その後、事実上の最終章になった「椰子林の巻」を介山が書き終えたのは、対米戦争が起きる半年前だった。
介山がカンパネッラを読んだことから、日中戦争のさなかに、こうした結婚観、性関係論に関心をもっていた(と私は想像する)ことはおもしろい。
ただ、私はこれを読んだとき、ゴダールの映画、『男と女のいる舗道』や、(題名を失念したが)これもゴダールの映画――ある全体主義国家の旅行者が、空港からホテルに直行したとたんに、美貌だが、まるでロボットのような「娼婦」(国家公務員)がスケデュール通りにあてがわれて、性的な処理を「配給」してもらうシーン。アラン・シリトーの逆ユートピア小説、『ニヒロンへの旅』を思いうかべた。
ウシシシ。