もう、誰もおぼえていない映画。
ニール・サイモンの「スーパーコメディアンと7人のギャグマンたち」(原題「23階のお笑い」/2000年)。テレビの草創期にあったアメリカ芸能界の小味なインサイド・ストーリー。映画の背後に、マッカーシズムの恐怖がある。このあたりに、ニール・サイモン喜劇らしい、スジの通しかたがある。
若き日のニール・サイモンは、シド・シーザーのギャグを書いていたから、いわば「私小説」と見ていい。ただし、日本ではまったく評判にならなかった。私も映画批評を書かなくなっていたから、どこにも書かなかった。
1950年代、NBCで圧倒的な人気を誇っていたコメディアン「マックス・プリンス」(ネイサン・レーン)は、7人の台本の構成作家(ギャグマン)を使っている。しかし、人気に翳りが見えはじめている。局の上層部は、視聴率の低下におびえ、90分の番組を1時間の枠に落とす。放送内容にもきびしい制約がのしかかってくる。
人気の低迷にくるしむ「マックス・プリンス」は、酒と薬物漬けで、食事中に眠ってしまうような状態。
ハリウッドに吹き荒れたマッカーシズムは、テレビにも影響をおよぼし、「マックス・プリンス」のリハーサルにも、稽古内容を逐一チェックする要員が配置される。
おそろしい監視社会の姿が重なってくる。
二流、三流の俳優ばかり集めて一流の舞台を作ることは、けっして不可能なことではない。しかし、二流、三流の俳優ばかり集めて一流の映画を作ることは、おそらくむずかしい。
この映画の主役に、たとえばジャック・レモンやウォルター・マッソーをつかっていたら、まったく違っていたはずである。ただし、この映画のような「低額予算」のプロダクションでははじめから不可能なプランだが。
50年代なら、さしづめミルトン・バール、バール・アイヴズ。
みるみるうちに、映画の厚みが増してくるだろう。
もう、誰もおぼえていない映画を見直して、(空想で)自分の好みのキャストでリメイクする。私のアホらしい悪徳のひとつ。