(つづき)
舟橋 聖一としては、私の訪問が迷惑だったにちがいないが、しばらく私を相手に雑談してくれた。
現実の文学者に直接会って、こちらがいろいろ勝手な質問をしてもそれに答えてくれたのだった。このときの印象はいまでも心に残っている。蔵を改造した仕事場に、志賀 直哉のみごとな書が衝立にしつらえてあった。
彼は小説を書くうえで、いくつかのことを話してくれた。私が程度の低い質問をしたのだろう。そのとき伺った話は私の心に残ったが、ほんとうのことをいえば流行作家の小説観、その方法論を聞いて仰天したのだった。
舟橋 聖一が語ってくれたことのいくつかは、後年、小説を書くようになって、私にもようやく理解できたことが多かった。(これは別の機会に書く。)
なにしろ礼儀知らず、傍若無人の学生だった。教室で講義を聞いたこともなかったが、高名な文学者に直接会って、いろいろ勝手な質問をしても、作家がそれに答えてくれている。彼は、私が批評を書いていることを知っていた。
舟橋 聖一がなぜ、私にいろいろなことを話してくれたのかわからない。私の幼稚な質問に答えてくれただけのことだったかも知れない。自分の制作上の苦心を語ることで、何もしらずに批評めいたものを書きはじめていた私に、現実に文壇で活躍する作家の姿を見ておけ、ということだったのかも知れない。
私に好意をもってくれたせいもあったと思われる。
礼儀も常識もわきまえない学生の話を聞いてくれた舟橋 聖一に、いまの私はほんとうに感謝している。
「今月は、小説を29編、書くんだよ」
いくらカンのにぶい私でも、多忙をきわめている作家が、貴重な時間を割いてくれていることはわかった。月に29編といえば、一日に1編は書くことになる。いくら流行作家でも、そんなこともできるのだろうか。
失礼な訪問のタイム・アップを示唆していることはわかった。私はあわてて辞去した。
廊下まで見送ってくれながら、舟橋 聖一は、ここにある本でほしい本があったらあげるよ、といってくれた。
信じられないことばだった。私は舞いあがった。案内されたときに、眼をつけていた本を手にとった。
堀口 大学の署名入りのジッド、小林 秀雄の署名入りの「おふぇりや遺文」、中島 健蔵の献呈サインの入ったヴァレリーをもらった。
あとで気がついたのだが、舟橋 聖一は自分の気に入った本の隅に、鉛筆でアルファベットをつけていた。彼なりの評価らしい。私がもらった本についていたサインは、全部、おなじだった。
それから判断すると、この作家にとってあまり価値のない本、つまり読み返す必要のない本を分けていたらしい。
教室にもろくに出たことがないのに、毎日、研究室に遊びに行っている学生だった。舟橋邸からそのまま大学に戻って、斉藤 正直先生に会った。彼は助教授でフランス語を教えていた。(ただし、私は斉藤 正直のクラスに出なかった。)斉藤 正直に、平野 謙のことで舟橋 聖一にお願いに行ったとつたえた。
戦時中、勤労動員で、斉藤 正直は、大木 直太郎といっしょに私たちの監督をつとめていたから、毎日のように工場で話をしていた。だから、大学の先生と学生というよりも、もっと特別な、いってみれば戦友のように親密な関係が生まれていた。
いまの学生には考えられないことだろうが、先生と学生のつながりはふつうよりずっと親しいものだったと思う。
大木先生は、誰よりもよろこんでくれて、さっそく教授会に出してみようと答えてくれた。
平野 謙は明治大学で教えることになった。
もうひとつ、これも時効だから書いておく。
当時、斉藤 正直は「近代文学」の同人になりたがっていた。斉藤 正直を佐々木 基一、埴谷 雄高に紹介したのも私だった。その後、「近代文学」の同人が拡大されたとき、私は安部 公房、関根 弘たちといっしょに同人になったが、斉藤 正直もこのときいっしょに同人になった。
遠い遠い昔のことである。