ある日、平野 謙が私にいった。
「明治(大学)の文学部で、先生、やらせてくれないかな。きみ、学校に行って聞いてみてくれないか」
「ええ、いいですよ」
当時、荒 正人は「第二の青春」で、一躍、戦後のジャーナリズムの売れっ子になっていた。平野 謙は、その荒 正人といっしょに、中野 重治の批判にあっていた。平野 謙は島崎 藤村論などを書いていたが、今から考えると、それほど原稿を書いてはいなかった。荒 正人ほど活躍する機会はなかったと思われる。そこで、大学の講師のクチでもいいから定期的な収入を確保したかったのではないか、と思われる。
当時の私はそんなことなど考えもしなかった。平野 謙のようなすぐれた批評家が、大学にきてくれれば、学生にとってはこれほどありがたいことはない。
誰に相談すればいいだろう。大木 直太郎先生なら話しやすい。しかし、先生は世田谷区に住んでいる。行くだけならいいが、帰りの電車賃がなかった。
もっと近くに住んでいる先生に相談しよう。
まっすぐ目白の舟橋 聖一のところに行った。舟橋 聖一は戦時中から戦後にかけて、明治大学で教えていたからである。戦後は、エロティックな作品を書きつづけ流行作家になっていた。
戦後まもない時期で、公衆電話もなかった。だいいち電話をかけることも考えなかった。相手の都合もたしかめずにいきなり作家の自宅を訪問することが、どんなに失礼で、相手に迷惑なことか。私は何も考えない阿呆な学生だった。
いきなり学生が訪問したので、舟橋 聖一も驚いたに違いない。美しい女性が用向きを聞いてくれて、仕事場に行ったらしく、また戻ってくると応接間に通してくれた。
舟橋先生は、小説を書いている途中だったらしい。作家なら誰でも、知らない人物の不時の訪問で仕事を中断されたくないのは当然だろう。私はそんなことも考えずに、のこのこと応接間にあがり込んでいた。
やがて美しい女性が先生の仕事場に案内してくれた。仕事場まで長い廊下になっている。外付けの長い廊下だが、腰板が作りつけの書棚になっていて、長廊下がそのまま書庫になっていて本がぎっしり並んでいる。
蔵を改造した仕事部屋に、和服の先生がいた。
戦後すぐから、私はいろいろな作家を「見た」(会ったとはいえない)が、自宅を訪問したのは、土岐 善麿につづいて、舟橋 聖一が二人目ということになる。
挨拶もそこそこに、平野 謙が明治大学の文芸科の講師になりたいと希望していることを告げた。先生は、私が別の用件で訪問したものと思ったらしいが、平野 謙のことは考慮すると答えてくれた。
(つづく)