詩人、ハイネは日本に関心を持っていたらしい。直接には、ゴロブニンの『日本幽囚記』を読んで、遠い異国にあこがれた。
1825年10月、詩人は手紙の中で、
「日本人は世界中でもっとも文化が高く、もっとも優雅な国民という。私は日本人になりたい」
と書いている。
文政時代で、この年の5月、イギリス船が陸奥沖合いにあらわれている。幕府は、異国船打ち払い令を出している。翌年、シーボルトが、将軍に謁見する一行の随員になる。そんな時代に、ハイネが日本に関心を持っていたというのも意外ではなかったかも知れない。
モスクワに行ったことがある。当時の「作家同盟」が、毎年、作家を3名招待してくれたのだが、その年、たまたま私が選ばれただけのことである。
モスクワでは何も見ることができなかった。たまたま街角にポスターが貼ってあって、ハイネの生誕150年の催しらしく、講演や詩の朗読が行われるらしかった。私はこの催しに行ってみたかった。ドイツ語もロシア語もわからないので、行ってみたところで何の役にも立たない。しかし、モスクワの市民が、どういう思いでハイネを聴くのか、その程度のことはわかるだろう。
しかし、同行した高杉 一郎も、畑山 博も、こうした催しにはまったく関心を見せなかった。私はすぐにあきらめた。
帰国したらいつかハイネを読み返そうと思った。しかし、そう思ってから30年、いまだに読み返す機会がない。ごめんね、ハイネさん。