若き日のヴァレリーは、友人のピエール・ルイスにあてて、ユーゴー、ゴーティエの栄光も、フローベルの「黄金なす朱色の燃ゆる光に色褪せた」と書いた。
『聖アントワーヌの誘惑』(1849年)が、ヴァレリーの心をとらえていたことはわかるのだが、なぜ『ボヴァリー夫人』や『感情教育』のフローベルに関心をもたなかったのか。『聖アントワーヌの誘惑』に、あれほど心を奪われたのに、『サランボー』には眼もくれなかった。
私にとっては、これは難問の一つだった。
はるか後年になって、ヴァレリーは『聖アントワーヌの誘惑』と『さかしまに』 を、ほとんど同時に読んだと知った。
もっと後年になって、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が1908年になってから出版されたことを知った。ヴァレリーは、この『聖アントワーヌの誘惑』を読み返したのではないか。
そうだったのか。ヴァレリーは、もう30代も後半で、すでに詩作を放棄していた。かれの文学的沈黙はまだつづくのだが、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が『若きパルク』の制作になんらかの刺激になったのではないか、と思った。むろん、仮説にすぎないが。
私の内部には、いつもこうした、とりとめもない疑問がおびただしくころがっている。けっきょくは、わからずじまいに終わるのだろう。
しかし、すこしでもわかりかけてきた、と思えるときはうれしい。