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和漢古典の教養がない。
自分ても恥じているのだが、これはまあ仕方がない。

「一寸法師」を読んでみた。
最後に、彼は鬼をやっつける。鬼に食べられるのだが、鬼の眼から飛び出して、あばれまわる。とうとう鬼は逃げ出す。

これはただ者ならず、ただ地獄に乱こそ出で来たれ。ただ逃げよ。」と言ふままに、打出の小槌、杖、しもつ、何に至るまでうち捨てて、極楽浄土の乾の、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり。

そうだったのか。これで、地獄がどこにあるのかわかった。それまで、地獄は六道の最も下層、瞻部州の地下にあって、閻魔さまがおいでになる場所と聞いていた。むろん、鬼が罪人を呵責するおそろしい場所である。
そこでは、褌ひとつ、腰巻き一枚の男女の亡者が、鬼どもの手で首かせをはめられて、閻魔大王の前にひきだされる。そこにある照魔鑑に、生前の罪業がうつしだされる。それをごらんになった閻魔さまが、亡者たちの行く地獄をおきめになる。いってみれば、ダッハウ送りか、アウシュヴィッツ送りか、選別、分別されることになる。

ところが、鬼どもは、極楽浄土の乾の方角に逃げている。いぬい、すなわち西北である。「一寸法師」の話に出てくるのは、摂津、住吉神と見ていいとすれば、「いかにも暗き所」がどこあたりなのか。

それに、亡者が、性別のためとはいえ、たふさぎ、こしまきだけは身につけることを許されていたことはどういう理由からなのか。

せっかく古典を読みながら、ろくなことを考えないのでは地獄に落ちるのは必定(ひつじょう)。

古典の教養がないことを恥じているのだが、仕方がない。