三浦 哲郎の『忍ぶ川』のヒロイン、「志乃」は、戦前、州崎遊郭のなかにあった射的屋の娘だったが、州崎も3月10日に爆撃され、多数の女たちが焼死した。
戦後、ほぼおなじ地域に「州崎パラダイス」として、売春地帯になった。
「志乃」は、恋人を生まれた土地につれて行く。
これが州崎橋といってから、
志乃は、焔になめられたあとが黒い縞になっている石の欄干を、なつかしそうに、手のひらでぴたぴたとたたいた。
戦後、50年以上もたってから、私はやっと吾妻橋から押上、ぐるりとまわって向島、州崎、小梅と歩いたが、業平橋の大理石まがいの橋をなつかしそうに手のひらで、ぴしゃぴしゃたたくことはできなかった。
低い橋桁にこびりついている、小さな、黒い縞のような斑点を見ているだけで、あの日の焦熱地獄の阿鼻叫喚が胸にたぎり、あふれてくるのだった。
当時、業平橋に住んでいた関根 弘は、この晩にまだ幼かった妹を失っている。彼はこのことをただ一度だけ、短い文章に書いている。おなじように、業平橋に住んで、戦後に作家になった峰 雪栄も、悲惨な体験をしているが、ついに一度も書かなかった。
これまで私は、業平橋の黒い斑点のことを人に話したことはない。むろん、一度も書いたことはない。