業平橋のたもとに、模造大理石らしい低い橋桁がついている。誰も気がつかないだろうが、よく見ると最下部のあたりに、黒い斑点がひろがっている。
ただの汚れにしか見えない。斑点は輪郭がぼやけて、小さな黒点も飛び散っている。
こんなものに気をとめる人はいないだろう。
1945年3月10日の深夜、私たちは猛火に包まれながら、業平橋の橋桁にとりすがって、焦熱地獄のなかを這いずりまわっていた。私は何度か意識を失ったと思う。はっきりおぼえているのは――自分は何もすることなく死ぬ、と思ったことだった。何かをなしとげたかった。しかし、このまま何もせずに死ななければならないのか。ぼんやり、そんなことを考えていた。
夜明け。私は眼を火と煙にあぶられて、睫毛もなくなってほとんど失明状態だった。やっと眼が見えるようになってからも、あたりがぼんやりとしか見えなくなっていた。
押上から柳島、北は向島、すべて焼け跡になって、まだ煙のたちこめる中に異様な赤みを帯びて太陽がのぼった。
私たち一家はなんとか生きのびたが、私たちといっしょにおなじ業平に逃げた隣組のひとたち、十数人のうち、4人が死んでいる。隅田公園に逃げた人たちは全員が焼死した。
戦後になって、50年以上、業平橋界隈に行くことがなかった。吾妻橋までは何度か行ったし、源森橋までは行っても、業平橋まではどうしても足を伸ばすことができなかった。
(つづく)