出雲の阿国は別として、日本ではじめて女優になったのは誰だったのだろう。
演劇史は知らない。
明治16年、新富座で菊五郎(五代目)が実録ものの『千種花音頭花唄』河竹 黙阿弥・作)を出した。座主の守田 勘彌の企画で、これに花柳界総出の踊りを出すことになった。
新富町、葭町、霊岸島、日本橋、下谷、講武所、東京じゅうの花柳界がわき立った。
たちまち警視庁から「男女混合の芝居は規則の禁止するところ、芸妓の出演まかりならぬ」と横やりが出た。勘彌が動いた。
なにしろ、勘彌の二号さんは、新橋の「岩井屋」のお貞である。当時、お貞は・・・ 西園寺 公望のご贔屓が「蓬莱屋」のお玉、井上 馨が「窪田屋」の鳥介(とりすけ)、大倉 喜八郎が「田中屋」のお愛、堀田 瑞松が「若菜屋」の島次と並んで名妓五人にかぞえられていた。この女たちが、ちょいと耳うちしただけで、警視庁の幹部の首が飛ぶ。 そこで警視庁も黙認。
初日、楽屋に張り紙が出た。
「男女混合の芝居は其筋に於て許可されざりしを種々懇願の末、猥りがましき事の無きやう、十分注意せよとの厳命を受け、ここまで運びたるに付、一同其心得にて謹直に身を持すべき事」
いずれ名だたる美男美女が楽屋にごった返しているのだから、こんな張り紙一枚にききめがあるはずもない。
まっさきに禁を破ったのは、家橘(のちの羽左衛門)と葭町の米八。これが露顕して、あわれ、米八は芝居の途中から舞台からパ-ジされた。
ほかにもイロイロと隠れた粋な話があるのだが、この米八が発奮して、のちに女優として舞台に立った。だから、本邦最初の舞台女優。
千歳 米坡(ちとせ べいは)である。