宮 林太郎の日記を読み返していて、こんな短歌を見つけた。
新宿の樽平という酒場にて友と語りし春の宵かな
昭和十年、「星座」という同人雑誌の創刊号に掲載された石川 達三の『蒼氓』が、第一回、芥川賞をうけている。宮さんは、翌年、石川 達三の知遇を得て、「新早稲田文学」に参加して、作品を書きはじめる。二十二歳。「星座」に参加したのは、さらに翌年だった。
新進評論家だった矢崎 弾が、上海に旅行して、帰国したとき、宮さんは神戸に迎えに行った。お互いに初対面だった。
下関から急行が着いたとき、宮さんは矢崎 弾とすっかり意気投合して、そのまま列車に乗ってしまった。東京駅に着いたのは、つぎの日の朝。
その日の夜、新宿の樽平で開かれた「星座」の同人会に加わって、「星座」の同人に迎えられたという。
その晩、同人の秋山 正香が新聞記者とケンカをはじめ、矢崎 弾と中井 正文がケンカをはじめた。宮さんは、中井をなだめて下宿まで送った。当時、中井は東大の独文の学生で本郷に下宿していた。下宿に着いても腹のムシがおさまらない中井が、あまりうるさいので、宮さんも腹をたてて、「勝手にしろ!」とどなってホテルに帰った。
秋山は、ケンカ相手と吉原の土手のドジョウ屋で夜明けまで飲みつづけ、やがて隅田川の土手で着物をぬぎ、いきなり川に飛び込んだ。
新聞記者は着物をかかえて言問橋をわたった途中で、警官の不審尋問にあってしまった。「どうしたのか」と聞かれて川を指さした。その先に抜き手をきって泳いでゆく秋山の姿があった。
警官はあきえて、「早く行ってやれ」といった。
このときのことを、のちに秋山は小説に書いた。この作品は、芥川賞の候補になったが、受賞できなかった。秋山 正香はのちに自殺している。
この話は宮さんから聞いた。
私は「星座」を読んだことがない。(昭和12年、私は小学校の低学年だった。)むろん、石川 達三は読んだし、矢崎 弾も読んでいる。
その頃の文学青年の生きかたも想像できた。
宮さんが、若い頃、こんな短歌を詠んでいたと知って、なにか不思議な感動をおぼえる。そこで、私もざれ歌を。
祐天寺ヘミングウェイ通りの春の宵 宮 林太郎の語りしことども
(つづく)