賀状をいただく。
自分では出さないのに、賀状が届いてくるとうれしい。御歳暮をいただくのとおなじで、自分ではお返しも差し上げないのに、いただくことはありがたい。まことにムシのいい、さもしい人間なのである。御歳暮のお返しもしないのは、私が貧しいからで、お返しをしたくてもできないからである。
賀状を出さなくなったことにも、私なりの理由がある。
しばらくまえまでは律儀に賀状を書いていた。印刷した賀状を出すのも気がきかない。たとえ印刷した年賀状でも、かならず干支にちなんだ一筆描きのようなもの、挨拶を添えて。
マンガや、デッサンめいたものを描いたり、けっこう楽しかった。ところが、年々、賀状をさしあげる数がふえて、ある年からとても間にあわなくなった。
そうなると、絵を添えるどころか挨拶も雑になる。祝詞を印刷した賀状に、自筆で「お元気ですか」と一行書き添える自分に愛想がつきた。
住所録のアイウエオ順に書いてゆくのだが、サ行の途中あたりまで書くと、くたびれ果ててしまう。そのためタ行からの友人、知人には、年賀欠礼という仕儀にあいなった。
御歳暮とおなじで、賀状をいただくのはありがたいのだから世話はない。要するに老人の身勝手さなのである。
ある年、植草 甚一さんから賀状をいただいた。これには驚いた。植草さんは暮に亡くなられたのだから。
おそらく、ご病床にあって書かれたのだろう。ご自分ではご病気の回復を信じていらしたと思われる。あのユニ-クな字体で書かれた賀状を押しいただきながら、個人を偲ぶと哀しみが胸に迫った。
このときから、私はもう賀状を出すまいと思ったのだった。
手紙も、私はワ-プロ、パソコンでは書かない。金釘流でも自分の字で書くようにしている。むろん、よそさまからいただく手紙は、ワ-プロ、パソコンでもうれしい。
今年も賀状は書かなかった。