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父には一つだけ、特技があった。
水練が得意で、古泳法、水府流の達人だった。
五、六歳から泳いでいたらしい。隅田川の中州に、芦が生えていたころで、アサリや白魚がとれた時代だった。大川端のこっち河岸(かし)には、ヤッチャ場があったし、本所寄りの岸には、百本杭。よくセイゴなどをしゃくったという。
水練の先生は、ゆたかな白髯(はくぜん)をたくわえた老人だった。普通なら、髯が水で濡れる。いくらりっぱな髯でも、水に濡れればチョロッとたれて、水がしたたるはずだが、この先生はけっして髯を濡らさず、子どもたちを叱咤し、水泳を教えた。
昌夫は水府流の泳ぎなので、へそ下しか水につけず、立ち泳ぎをしながら、弓矢も射るし、筆も使う。なにしろ、鎧兜をつけても泳げる戦闘泳法なのである。
水府流。元禄時代、水戸の島村 孫左衛門正広が編み出した泳法という。
ついでに書いておくが・・・向井流は、幕府の旗本、お船手組の組頭、向井 将監(しょうげん)のはじめた泳法。木村 荘八が少年の頃にこの泳法を習ったという。

父といっしょにプ-ルに行く。これが、いやだった。
はじめのうちは誰も気がつかないが、しはらくすると、泳いでいる人たちがみんなプ-ルから出てしまう。プ-ルサイドに立った人々が、奇妙なものを見たような顔をする。
昭和の初期でも、日本の古泳法はすでにすたれていた。それどころか、古泳法そのものを知る人もいなかったのだろう。
父はひとりで泳ぎつづける。スピ-ドを重視するクロ-ルや平泳ぎを見慣れている眼には、ひどく奇妙な泳ぎかたとしか見えない。

水府流の泳ぎかたでも胸から下は沈めない。上半身、へそから下を沈めて泳ぐこともあった。それでいて、いくら泳ぎ続けても息が乱れない。抜き手、ノシを切っても、水面がまったく波立たない。そのかわりスピ-ドの遅いこと遅いこと!
みんなが茫然として見ていた。失笑する人もいた。なにしろ誰も見たことのない泳ぎかただったから。一度だが、頭に鉢巻きを巻いて墨を含ませた筆を挟み、立ち泳ぎで、和紙に文字を書いたことがある。むろん、両手も和紙も濡らさなかった。見ていた人たちから拍手がおきた。
バサロのように水にもぐる潜水泳法もあるのだが、息つぎの長さは驚くべきものだった。昭和になって元禄の古式ゆかしい泳法を見たら誰だって驚くだろう。

父といっしょにプ-ルに行くのが恥ずかしかった。父が泳ぐと、みんながおもしろがって見物するのだから。私が人前で泳がないのは、これが原因だったような気がする。

江戸ッ子のくせに、朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった父、昌夫に私も似ているらしい。

(つづく)