昭和12年、それまで住んでいた清水小路から、土樋(つちどい」の家に引っ越した。土樋の家は、広瀬川に面した愛宕橋の袂の小さな一郭で、「真福寺」というお寺の斜め前、もともとは墓地にする予定の空き地、それも崖の上に建てられたものらしい。
前に広瀬川、後ろがすぐに墓地という家作だったから、借り手がいなかったのかも知れない。
私の家のすぐ右手、川に面した崖の一部に長方形の小さな池があって、その池(というより、2×1.5メートルばかりの水溜まり)が「首洗いの池」だった。笹と雑草が生い茂って、昼でも薄暗い池だが、私は毎日その池の横から、わずかな斜面を下りて、広瀬川のほとりで遊んだものだった。
ただ、愛宕橋の袂の土地で、浪人、梁川 庄八(やながわしょうはち)が、伊達藩の家老、茂庭 周防守(もにわすほうのかみ)を青葉城の門外で襲い、その首級を刎ねて、逃走し、愛宕橋まで首尾よくたどり着いて、討ち果たした恨敵の首を洗ったという。梁川 庄八は、戦前の講談では、けっこう有名なヒーローだったが、今はもう、誰も知らないだろう。
伊達騒動を描いた歌舞伎の「伽羅千代萩」は、大詰め、花道をのがれてくる外記とそれをおって揚げ幕から出てくる仁木の立ちまわりで知られているが、おなじ、奥州を舞台にした歌舞伎で、仙台の南にあたる白石城下に住む姉妹の仇討ちにもとずく「碁太平記白石噺(ごたいへいき・しろいしばなし)」は、それほど知られてはいない。
(安永9年・1780)に人形浄瑠璃として上演され、すぐに歌舞伎化された。梁川庄八の仇討ちは、やはり人気がなかったのかも知れない。「戦後」は、復讐をテーマにしているために、このものがたりは公演されなくなったばかりか、講談でも忘れられた。
私の同級生に、この茂庭 周防守の直系の子孫にあたる茂庭君がいて、成績はごくふつうだったが、スポーツ万能で、後年、柔道5段、宮城県の柔道連盟の幹部になっている。
私は梁川 庄八のファンになったが、茂庭君に、茂庭 周防守について聞いたことはない。
ただ、仙台の市民には、伊達 政宗に対する深い忠誠、尊敬があった。私は、向山の伊達家の廟をよく訪れたり、真田 幸村の息女が嫁いだという伊達の重臣、片倉家について調べたりするようになった。
後年の私が時代小説を書くようになったのも、仙台に育ったことが遠因かも知れない。