青葉城の城下町、木無末無(きなしすえなし)という奇妙な名前の町に住んでいた私の一家は、やがて連坊小路(れんぼうこうじ)の近く、清水小路(しみずこうじ)の一戸建ての家に移った。
あたらしく移った清水小路の表通りには仙台駅から南西の長町まで市電が通っていた。市電の停留所、荒町と連坊小路のちょうど中間で、表通りから小さな路地に入ると、すぐに馬場のような空間がひろがっていた。どうしてそんな区画ができたのか知らないが、幕末までは下級の足軽長屋、厩、小さな馬場だったらしい。狭い路地を抜けると、巾着のようにかたちに馬場跡の原っぱがひろがって、奥の長屋の門につながっていた。
この原っぱが、子どもにとっての王国だった。幼い頃の遊び、鬼ごっこや隠れンボ、やがてケンダマ、メンコ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなど、そんな記憶に直接結びついている。
幼い私がいちばん最初に仲よしになった女の子がいた。村上 政子という名前で、未就学の私のはじめての遊び友だちだった。
父親は、当時、まだめずらしかったタクシー屋をやっていた。「村上タクシー」という大きな看板を出していたが、自動車は1台だけで日中はたいてい出払っていた。
ある日、政子ちゃんは、白い菊の花を握りしめて遊びにきた。
「今、よそのお庭で切っていたからもってきた」
といって、私にわたした。
こんなことにぶつかったのははじめてなので、どうしていいかわからず、家の前のセメントの上に載せておいた。
政子ちゃんは、そんな私を見ていたが、しばらくすると、
「なんかして遊ぼ」
こうして、私たちは遊び友だちになった。お侠(きやん)で活発で、私よりずっとハキハキした女の子だったが、おハジキ、お手玉といった女の子の遊びを色々教えてくれた。
政子ちゃんは私にとってはじめてのお友だちだった。
幼い私の内面に、女の子に対する親しみ(アフェクション)が生まれたとすれば、それは政子ちゃんに対する感情だったに違いない。
別の日、私がひとりでいると、家の近くで政子ちゃんが、ちょうど細い路地を向こうへ行くうしろ姿が見えた。いつもなら、かならず私に寄ってきて声をかけてくれるのにと思って、呼びとめたいような気もちでいっぱいになりながら、政子ちゃんの姿を見ていた。政子ちゃんはしょんぼりしている私に気がついて、すぐに足をとめて、
「あたい、病院に行くのよ」
といった。
その日から政子ちゃんは二度と私の前に姿を見せなくなった。
私は、毎日、「村上タクシー」の前で政子ちゃんが出てくるのを待っていた。しかし、政子ちゃんは出てこなかった。
やがて、私にも少しずつわかってきた。政子ちゃんの笑顔を見ることはもう二度とないのだ、と。それがわかったとき、私ははじめて、仲よしだった政子ちゃんがいなくなったことに、なにか空虚な感じが広がるのをおぼえた。
やがて「村上タクシー」がタクシー屋を廃業してどこかに引っ越して行った。