向田 邦子について書いたエッセイは、「阿修羅のごとく」公演パンフレット(「芸術座」/平成16年7月)に掲載された。
私は、頼まれれば何でも書くことにしていたので、映画のパンフレット、劇場のパンフレットに原稿を書くことも多かった。向田 邦子について書いたエッセイも、芝居のパンフレットに書いた。当然ながら少数の人が読んだだけで、私の周囲の知人、友人も、こんなエッセイを読むことはなかったはずである。
「阿修羅のごとく」は、いい意味で日本のブールヴァール芝居と呼んでいいだろう。このまま、外国語に訳されて外国の劇場で上演されても観客に理解されると思う。少なくとも、日本の「戦後」屈指の風俗劇として関心をもたれるだろう。ただし、この場合は、サン・フランシスコあたりの劇場から出発しなければならないだろうけれど。
これが、もし練達の脚本家が、向田 邦子の原作に近いかたちで翻案して、その国のすぐれた女優たちを起用すれば、オフ・ブロードウェイの劇場で上演してもかならずヒットすると思われる。
ただし、その「翻案」でも、向田 邦子の「阿修羅のごとく」というタイトルは、すんなり受け入れられるとは思われないが。
私が、日本の「戦後」屈指の風俗劇と呼ぶのは、芝居として見た場合、「三婆」、「遊女夕霧」、「放浪記」、あるいは、谷崎 潤一郎原作の「細雪」などよりもずっと高級な芝居になっているからである。(小説については、まったく別だが。)
これまた、私の「妄想」なのだが。
「阿修羅のごとく」を見たときの印象ももはや薄れかけているが、中村メイコが母親役で、山本 陽子、中田 喜子、秋本 奈緒美、藤谷 美紀が四人姉妹で、それぞれの修羅をユーモアとぺーソスで押しつつんだ良質のブールヴァール・コメディだった。
私の印象では、長女役の山本 陽子は、自分の美貌をあまりにも恃み過ぎて、女優としての危機に気がついていないように思った。
夫の浮気を疑っている次女役の中田 喜子に注目した。その後、テレンス・ラティガンの芝居など、中田 喜子の舞台を何度か見つづけたが、やはりラティガンには向かない。女優としてのディグニティーがない。惜しいかな、これであたら名女優になれるチャンスを見逃したな、という気がした。
秋本 奈緒美と藤谷 美紀はこれからの人という感じだったが、藤谷 美紀ならさしづめウェデキントの「パンドラの箱」か、秋本 奈緒美ならラビッシュの「イタリアの麦ワラ帽子」あたり、みっちり稽古すればすぐれた女優になれるだろう、と思った。
舞台を見ながらそんなことを考えたことを思い出す。むろん、これもまた、私の「妄想」だったが。
当時、まさか向田 邦子について何か書く機会がある、とは思っていなかった。私の書くものとは、およそミリューが違っていた。ただし、向田 邦子に関心がなかったわけではない。「日本きゃらばん」の庄司 肇さんが「向田 邦子論」のようなものを書いていたので、向田 邦子の著書はひとわたり読んでいた。
コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、雑誌や、自分の原稿などを整理したのだが、たまたま「阿修羅のごとく」の公演パンフレットが出てきた。
私のエッセイはそれなりにまじめに書いていると思う。劇場の観客向けに、できるだけわかりやすく書いていることがわかる。私のエッセイを読んで、「阿修羅のごとく」の印象が、やさしく、しかもいきいきとしたものになればいい。おそらく、そんなつもりで書いたらしい。
このエッセイを依頼してきたのは、当時「東宝」の演劇部にいた谷田 尚子だった。現在の谷田 尚子は、ある有名な俳優のエージェントになっているが、彼女のおかげで、いろいろな舞台を見ることができた。
タイトル、「庶民の哀歓を描いた作家~向田 邦子」は、私がつけたものではない。
谷田 尚子がつけてくれたものだろう。
あらためて、谷田さんに感謝している。
向田 邦子には一度だけ会ったことがある。井上 一夫(翻訳家)が紹介してくれたのだった。まだ、森繁 久弥のラジオコラムも書いていなかった頃だろう。つまり、まだ無名の向田 邦子に会っていることになる。
すぐにその才気煥発に驚かされた。
そのあと手紙をもらった。綺麗な字に彼女のまれに見る才気を見た。
残念ながら、その手紙は残っていない。