(つづき)
宿帳に書いてくれた人たちの中には、のちに作家になったひと、翻訳家になったひと、残念なことに早世したひと、いろいろだが、今になってみると、それぞれ違った運命をひたむきに生きたといえるだろう。
なぜ一冊のノートにこんなものを書かせたのか。その目的はすでに述べたが、もっと違った理由もある。
翻訳家をめざす人たちは、当然ながら、外国語ができる。しかも、翻訳家を目指して勉強する意欲をもっている。外国語を理解して翻訳するということは誰にも許されることではない。つまり、それだけでも有用な資質だろう。
私は、この人たちにさまざまなジャンルの作品を読ませた。
純文学はもとより、ミステリー、ホラー、SF、ロマンス小説、ときにはポーノグラフィックな作品まで。フィクションを翻訳したいと希望する人でも、ノン・フィクションなどに取り組むことで、プロになる機会をつかむことが多い。
だいたい3週間~4週間で、一つのジャンルの短編を読むことにしていた。なるべく多様なジャンルの作品を読み、自分の「現在」の語学力で訳すことが新人の訳者には必要と考えたからである。大学の英文科、とくに女子大の英文科で、一流作家の作品を読んできたからといって、「ニューヨーカー」スタイルの短編を訳せるとはかぎらない。
おなじように、フォークナーを読んできたからといって、ダウン・イーストの喜劇的なヤンキーの伝統を描いた作品をうまく訳せるだろうか。
私以外の先生たちは、いずれも有名な教育者ばかりで、その講義もすぐれたものだったと思われる。ただし、その先生がたが教えたことは、ご自分が専門とするすぐれた作家の作品をテキストにして、講読を行うことに尽きていた。ある優れた先生は、ご専門のポオの作品をとりあげて、ポオの解釈を教えつづけられた。
私は、こうした講義に危惧をもっていた。それぞれのクラスの大半が出身大学のクラスでそういう講義を受けてきているだろう。私のクラスにしても、大半の受講者は女性だったが、大学の教室で、ブロンテ姉妹や、ディッケンズ、ブラウニングあたりから、レベッカ・ウェスト、カーソン・マッカラーズなどを読んでいる。なかにはイタリア・ルネサンスに関する専門的な本を読んでいて、私に著作を批判した才女もいた。
語学力のレベルだけでいえば、私のクラスの人たちは一流大学の学生以上のハイ・レベルだったといってよい。
しかし、女子大の英文科を優秀な成績で卒業したからといって、そのまますぐに翻訳家になれるだろうか。どこの出版社が、彼女の翻訳書を出してくれるだろうか。
私のクラスの生徒たちは、だいたいが語学的に優秀な人が多かった。しかし、実際に翻訳したものを拝見すると、それは女子大の優等生の翻訳に過ぎない程度のものが多かった。
私は、そういう訳をいつも「女子大優等生の翻訳」として褒めることにしていた。むろん、半分は皮肉で。
私の「宿帳」に書かれた字をみただけで、私はかなりの程度まで、その人の才能や、文学的な適応性、志向とか、好みまでわかる。これに関しては、かなり自信をもっている。
字の上手へたではない。
その人の精神上の事像を、そのなかに含めて文学的なプロダクティヴィテイー、さらには外国の小説、エッセイを読むことで、どこまで自分のクリエーティヴな天分がひらめいているか。
わずかな記述からも、その人の思考の明確さ、かなりの炯眼、透徹が見てとれる。
じつは、ある時期まで、ある劇団の俳優養成所で、若い俳優、女優志望者たちを相手に講義や演出をつづけてきた経験が役に立ったのかも知れない。
若い人の才能をいち早く発見して、育てる、その才能を誘掖することは、ただの教育の域を越えている。