1894

たいせつな宝物がある。「宿帳」という。ただし、私がいうのではない。
私のクラスに集まった、若い、優秀な女人たちがひそかに「宿帳」と呼んでいた。

ほとんど半世紀、一冊のノートを持ち歩いていた。当時、私は、東京の大学と相模原の女子大の先生をやっていたが、もう一つ、東京は神田にあった翻訳家養成を目的とする学校の講師をつとめていた。

神田の翻訳学校、私のクラスでは授業の最初の日にノートをさし出して、自分の氏名と、一行でもいいから何か書くことを「義務」とすることにしていた。

自分のクラスの生徒にいきなり「義務」を強制する先生はいないだろうと思う。たいていの生徒は驚いて、拒否反応を見せるのがつねだった。

ノートをスルーする生徒もいたが、それでも、これが教育者(エデュカテュール)としての私の「訓練」と判断して、しぶしぶながら私の要望に応えてくれる人もいた。

ほとんどの生徒たちは、一行から数行、何か書く。自分の名前をサインして、ノートを隣りの生徒にまわすのが習慣になった。

じつはこのノートには私なりの目的があった。できるだけ早く出席者の名前をおぼえること。
あわせてその筆跡をみて、その「生徒」の文学的な資質、ひいては性格や、適性、志向性などを判断すること。
あえていえば筆跡学のようなものでもあった。

手もとにある1冊をここにとりあげてみよう。ただし、筆者に無断で。

ジャーマン・ベーカリーで かもめのお話をしました。
’小説の解釈、劇の解釈は自由である’という言葉の重さを考えたく思います。(R.K.)

「かもめ」は、むろん、チェーホフのドラマ。何を話したのか内容はおぼえてもいない。

おそらくチェーホフの戯曲が話題になったのだろう。
このノートでは、タイトルにカギかっこがついていない。このことから、私は何を読んだのか。
ノートのはじめのぺージにこれを書いてくれたR.K.さんは、のちに評判になるTVシリーズのノベライズを手がけたり、有名な人形劇団で演出助手をつとめたりする。
優秀な劇作家になった。

第一章をお渡ししてしまいました。
書いているというか(ワープロを)打っていると、ああ、早く終わらないか……と今から思ってしまいます。 (M.N.)

 

最近、大学時代の先生のお宅にお邪魔を致しました。79才にして、ピアノのお稽古を始められ、震える指でシューベルトをきかせて頂き、私も生きる勇気がわいて参りました。 (T.T.)

 

このお店はいつもお客様がいませんねえ。
お仕事、頑張ってください。 (I.O.)

 

地方にいるころ、こんな先生に教えてもらえたら、と思っていた、その「先生」に、現実にお目にかかることができ、本当に夢みたいです。 (F.U.)

 

今朝4時に起きて、机に向かいました。苦しんでいた原稿の導入部が決まり産道がひらけました。
今は朝から小雨。昨年5月から続いた講義「ルネサンスを生きた女性たち」の最終日。お忙しいなかを本当にありがとうございました。 (N.T.)

 

山ノ上ホテルは、学校の先生のおめでたい結婚式でにぎわっております。先生をからかう生徒の笑顔。眼鏡の奥の、先生の幸福な瞳。春を感じるひとときです。(F.U.)

 

いつもお世話になるばかりで心苦しくおもっています。これからもどうぞよろしくおねがいします。 (Y.K.)

 

皮肉で楽しい御講義は、私の人生のたのしみです。末永くよろしく。(H.K)
成瀬 己喜男、観ました。
「メトロポリス」、観ました。
川島 雄三の「接吻泥棒」、観ました。
映画を観ているのが一番しいあわせ。 (M.N.)

 

いつも冷や汗をかいています。
自分の力のなさをいつもみせつけられ、素晴らしい刺激をうける毎週金曜日です。
これからもどうぞお見捨てなく。(R.M.)

 

翻訳の入口で迷っている私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。(F.I.)

 

もう4月だというのに、寒くて嫌なお天気です。
ひどいかぜをひいてしまいました。どうもさえない毎日です。
頭、スッキリ、気分、スッキリして新たに出発したいものです。
4月に入ったらすぐ私の本がでるのですね。だからといって、何も変わることはないし、はっきりいって自分が小説家といえるとは、まだ思っていません。
これをひとつの区切りにして気分一新してがんばろうと思うのです。(I.O)

 

これは「宿帳」の最初から数ぺージの引用である。名前は伏せた。

あえていえば、この「宿帳」は私の日記の代用品であった。私のノートは、いつごろからか「宿帳」と呼ばれることになった。
(つづく)