1891

作家の常盤 新平は、まだ無名の頃、私の家によく遊びにきた。
私が結婚したばかりの頃、三日も四日も泊まっていたことがある。これは、彼の「遠いアメリカ」に出てくる。

その常盤 新平は、やがて、早稲田に移り住むのだが、その前は、なんと埴谷 雄高さんの家の間借り人だった。
埴谷さんは、いうまでもなく戦後文学を代表する作家だが、「戦後」すぐに「死霊」を書きはじめた。この頃は、まだ「死霊」第一部(1946~48)の連載をはじめたばかりで、作家としては広く世に知られた存在ではなかった。
後年、埴谷さんは、安保闘争を中心に展開された政治論、スターリン批判などで、若い世代に思想的な影響を与えることになるが、「戦後」まもない時期には、生活のため、自宅の一部を学生の下宿に貸していたに違いない。

私は、常盤 新平が、埴谷 雄高さんの間借り人だったと知って驚いた。

埴谷さんも、間借り人だった学生が、後年、直木賞をもらう作家になるなど想像もしていなかったに違いない。常盤 新平は、この時期の埴谷さんについて何も書いていないと思う。彼が、間借り人だった時期は半年ばかりだった。

もう一つ。やはり、今となっては、私以外の誰も知らないことを思い出した。

埴谷さんは、若い頃、左翼の機関紙「農民闘争」の編集をしたことが知られている。むろん、非合法活動もつづけていたが、治安維持法によって裁判を受け、一年半も服役した。出所後に、ドストエフスキーを読み、大きな影響を受けた。

この時期、埴谷さんは、当局の監視下に置かれていたが、当局の尾行をふり切って逃げた。このとき、埴谷さんを助けたのは、長谷川 泰子だったという。

長谷川 泰子といっても、もう誰も知らない。当時、若い詩人だった中原 中也の「恋人」だが、その女性を、親しい友人、小林 秀雄に奪われる。
小林 秀雄は、やがて泰子から去る。というより逃亡する。中也は、今ひとたび自分のもとに戻ってくるように願うのだが、泰子はそれを拒否する。

埴谷さんは、まさにそのとき、司直の追求をのがれようとして泰子に匿われたという。

こんな話も、もう、その時代の暗さ、緊迫した空気が想像できなくなっている私たちには、ほとんど意味もわからなくなっているのだが。