ある時期から私は明治大学の文学部の講師をつとめていた。
プレゼミと「小説研究」というクラスで、私としては、アメリカの大学にある「創作コース」Creative writing course のような講義をめざしていた。
まだ全国の大学で学園紛争が起きるようなことはなく、私のクラスは、いつも4、50人の学生が出席していた。
当時の私は、生活のために翻訳を続けていたが、一方で、「俳優座」養成所でアメリカの劇作家を中心に講義をつづけ、やがて演出家をめざしていた。したがって、「小説研究」と称して、学生たちに小説創作を中心にした講義をしようというプランは、あながち不自然なものではなかった。
ただし、この企ては私の能力の及ぶところではなく結果としては失敗に終わった。
ある日、教務課から急に連絡があった。
日頃、教務課から呼び出されることなどなかったので、さては自分の行状に落ち度でもあったか、学生たちがなんらかの理由で私の講義をボイコットしようとしているのか、などと心配しながら教務課に急いだ。
思いがけない話があった。
当日、ある劇場で、マルセル・マルソーというフランスの役者が公演するのだが、チケットの売れ残りがあるので、劇場側から大学生を無料で招待したいと打診してきた、という。ただし、開幕まで時間が迫っておりまして。
この話はほかの教室、法学部、経済学部や、商科の学生ではなく、文学部、それも私の「小説研究」に話があったという。
大学側としては、変則な授業の一環として、見学というかたちでこの提案を受けるかどうか、中田先生は「俳優座」の講師もなさっているお方なので、ご相談もうしあげます。
先生のご判断によりますが、その日の講義を中止して、クラス全員で劇場に行っていただけないか、という。
私はマルセル・マルソーという俳優を知らなかった。
パントマイムの役者という。マルセル・マルソーは、はっきりいって、日本ではまったく知られていない。
思いがけない話を聞いて驚いたが、私はすぐに承諾した。
チケットが売れなかった理由は――マルセル・マルソーの知名度が低かったこともあるが、会場の地理的な場所のせいもあった、と思われる。
公演といっても、現在の「三菱一号館美術館」の近くのビルなどではなく、財界人の講演や、規模の小さいシンポジウムなどが行われるようなコヤだった。