1876 東山 千栄子(4)

俳優の「芸談」を読む。
「戦後」、いろいろな女優が「芸談」を残している。たとえば、水谷 八重子(といっても現在の水谷 八重子ではなく、守田 勘弥<十四世>の夫人だった水谷 八重子の)「ふゆばら」という随筆。杉村 春子の「楽屋ゆかた」、高橋 とよの「パリの並木路を行く」、柴田 早苗の「ひとりも愉し」、映画スターだった入江 たか子の「映画女優」といった随筆。
もう、誰も知らない女優たちの著作で、おそらくゴーストライターの書いたものも含まれている。内容的には、読むに耐えないものもある。

そのなかで、東山 千栄子の「新劇女優」は、自分の手で書きつづった文章で、この女優の誠実さが感じられる随筆だった。
何度かくり返して読んだ。

私たちのうちのある型の俳優は、役をうけとったときに、どの場処をどう生かしてどのように効果をあげるべきかということを敏感に計算して、そこから出発します。ある型の人たちは、まず自分の方に役をひきよせます。自分の持っている個性的な素材でいかに処理して行くかというところに表現の出発点をおくのです。けれども、私はそのどっちのみちからもはいっていけないやっかい(傍点)な型に属しているらしく、いつでも永字八法からのお手習いです。
全体を全体としてうけとり、全体として処理して行く――それが、私の不器用な、唯一の方法です。
私は、私としてもっとも誠実な道を進んで行くほかはないのです。劇場というところは、誠実をわかち合うための場処――そう私は信じています。今日、私たちにもっとも必要なものの一つではないでしょうか?

私は、こういう東山 千栄子が好きだった。こういうことばは、やはりたくさんの舞台でたくさんの「役」を演じてきた女優のたじろがない自負心、と同時に、三十なかばになって、はじめて舞台女優をめざしながら、いつも初心を忘れなかった東山 千栄子の孤独さえ感じるのだ。

このブログを書いているときに、女優、竹内 結子の訃を知った。このとき、私は、東山 千栄子のエッセイの結びのことばを思い出した。

今度の稽古中の悲しい出来ごとは、公演を九日前にひかえての堀阿佐子さんの突然の自殺でした。あの方がはじめて舞台を踏まれた時から私は文学座で存じ上げていますだけに、私は悲しさをひしひしと感じるのです。どうぞこの「フィガロの結婚」が成功してせめてあの方の霊を慰めてあげることが出来たならば……そう心にいのりながら私は毎日の舞台を踏んでいるのでございます。

1949年5月、ボーマルシェの「フィガロの結婚」がピカデリー劇場で上演された時期に書かれた。堀 阿佐子は「文学座」の若い女優で、「戦後」もっとも属目されていた女優であった。私は堀 阿佐子と直接のかかわりはまったくなかったが、彼女が自死を選んだ若干の事情は知っていた。むろん、ここには書かないが。

「戦後」、まだまだ混乱が続いていた時期で、毎日のように悲惨で、陰惨な事件がつづいていた。そうした混乱のさなかに自殺した堀 阿佐子の死を「俳優座」の東山 千栄子が悼んでいる。

いまさらながら東山 千栄子の誠実に胸を打たれる思いがあった。

コロナ・ウイルスという災厄のなかで、私たちは、三浦 春馬、藤木 孝、竹内 結子の死を知らされた。このひとたちが、東山 千栄子を知っていたら。

もとより、愚かな思いと承知している。だが、私はひそかにつぶやくのだ。
俳優や女優は、「役」として以外に死を選んではならぬ、と。

 

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