東山 千栄子は、明治23年、千葉生まれ。
父は、千葉地方裁判所の所長だった。のちに、朝鮮の京城高等法院長になる。
千栄子は、10歳のとき、母方の寺尾家の養女になる。養父は、当時、東大で、国際法の教授だった。
明治36年、千栄子は、麹町の富士見高等小学校2年のとき、学習院の入学試験を受けた。1年の合格者のなかに千栄子の名前はなく、2年に編入された。千栄子を1年に合格させたのでは、学力があり過ぎて、他の生徒がこまることを心配して、とくに2年に編入されたという。
当時の学習院は、下田 歌子が校長だった。
学習院女学部は、上流の子女ばかりで、小笠原流の作法、西洋料理の食べ方、ダンスなどをきびしく躾けられた。母の希望で、フランス語、華道、琴などを習った。
18歳で結婚。貿易商だった夫にしたがってモスクワに移る。20代の8年間に、帝政ロシアの最後の日々を過ごしたことは、その生涯に決定的な意味をもった。モスクワ芸術座の芝居や、オペラ、バレエ、イタリアの絵画などに親しむ。小山内 薫を知る。
帰国して、「築地小劇場」の「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー/大正13年)を見て、女優になろうと決心する。36歳。小山内 薫に相談して、研究生に合格する。同期に、滝沢 修、伊達 信、岸 輝子(のちに、千田 是也夫人)、村瀬 幸子がいた。
東山 千栄子は、ほかの女優と違ったところがある。女優になりたいと思って「築地小劇場」の研究生になったのが、そろそろ中年に近い年齢だったこと。その前に、ロシアのモスクワで、たくさん芝居を見ていたこと、フランス語、ロシア語に堪能だったこと。
体型が大柄で、ややでっぷりしていたこと。生まれつきアルト系の、どちらかといえば、甘ったるい、歌うような声だったこと。
こういう女優は、岸 輝子や、村瀬 幸子などのもたないものだった。
女が女優として生きることが恥ずべきことと思われた時代に、はじめから別格の、名流夫人の登場といった感じがあった。それだけに、ヨーロッパ、アメリカの芝居を、東山 千栄子ほど多数演じた女優はいないだろう。
オニール、ボーマルシェ、シェイクスピア、イプセン。
「築地小劇場」の観客は、東山 千栄子の芝居を見ることによって、かなりの程度、外国の劇作家の仕事を勉強してきたはずである。その意味で、東山 千栄子は、彼女より前の世代の女優たち、松井 須磨子、藤沢 蘭奢、沢 モリノなどより、ずっと有利な条件で女優として出発している。
なにかのことで、ふと東山 千栄子を思い出すことがある。
そういうときの私の内面には、千田 是也、小沢 栄(栄太郎)といった幹部たちよりも、少し格下の松本 克平、信 欣三、永井 智雄、浜田 寅彦、田島 義文たち。女優としても、岸 輝子、村瀬 幸子よりも、赤木 蘭子、楠田 薫、三戸部 スエたちの思い出がよみ返ってくる。
いつもその中心に東山 千栄子がいた。まるで東山 千栄子を触媒にして、つぎつぎにほかの人たちを思い出すようだった。
なつかしい俳優たち、女優たち。もう、誰もこの人たちのことをおぼえていないだろう。だが、こういう人たち、それぞれが舞台のうえでかがやいていた。その思い出の中心に東山 千栄子がいるのだった。