1873 東山 千栄子(1)

 

 

新聞にこんな一句が載っていた。俳人の長谷川 櫂の解説がついている。

東山千栄子のやうな 衣被(きぬかつぎ)

今井 聖

チェーホフ「桜の園」のラネーフスカヤ、小津 安二郎「東京物語」の母親。
たたずめばグランドピアノ、歩けば白い帆を張った帆船のように優雅だった。
衣被(きぬかつぎ)を前にして往年の名優を懐かしんでいるのだ。句集「九月の明るい坂」から。

衣被(きぬかつぎ)は、里芋の子を茹でたもの。指をそえて、少し力をいれると里芋の皮がつるりと剥けて、白い実が飛び出してくる。季語としては、秋。

女優の名前がそのまま俳句に詠み込まれているめずらしい例。女優が愛されて、ここまで表現されていることに感動した。
ゆくりなくも、この句とは関わりなく東山千栄子のことを偲んだ。

1952年(昭和27年)、私は「俳優座」養成所の講師になった。内村 直也先生の推輓による。当時、日本は講和条約が成立して、日本人の海外旅行も自由になったばかりだった。ラジオ・ドラマの「えり子とともに」で、人気を得ていた内村さんは、1TI(国際演劇協会)の日本代表として、リドで開催される「劇作家会議」に出席することになった。ひきつづいて、「ユネスコ」の「世界芸術家会議」に日本代表として出席するため、後任の「俳優座」養成所の講師に私を推薦したのだった。内村さんは、主にアメリカ、イギリスの現代劇をとりあげて講義なさっていた。
この頃、イギリスのプリーストーリーの「夜の来訪者」を訳していたはずである。これも、内村さんの代表作のひとつになる。

一方、私は、「戦後」すぐに批評を書きはじめたが、まともな批評家にもなれず、ミステリーの翻訳をしたり、民間放送の仕事、ラジオ・ドラマや録音構成というドキュメンタリーや雑文などを書きつづけていたが、まるっきり才能のない文学青年だった。
芝居はよく見ていたが、現実の舞台については何も知らない。「俳優座」で知っていたのは、青山 杉作だけで、それも私のラジオ・ドラマを演出した演出家というだけの関係だった。要するに、私は何も知らないまま、「俳優座」養成所の講師になったのだった。
何も知らないだけに、「俳優座」養成所で、若い俳優志望者にどういう訓練をするのかぜひ見ておきたかった。(このときの経験は、後年、大学や「バベル」で教えるエデュカチュールとしての私を作りあげたと思っている。)

講師になってすぐに、東山 千栄子に紹介された。紹介してくれたのは、千田 是也だった。

当時、御殿場に住んでいた東山さんは、劇団には週に一度、顔を出す程度だったのではないか。この日は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の稽古があって劇団にきたのではないかと思う。
「こちらは、今度、養成所で講義をお願いした中田先生です」
千田 是也が紹介すると、東山 千栄子はにこやかな微笑を見せて、
「若い先生でいらっしゃいますのね。養成所のほうでいろいろお世話になりますが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
私はあわててお辞儀をした。このときの私は、ほんとうにラネーフスカヤ夫人に会ったような気がしたのだった。

「俳優座」養成所で、若かった私は、臆面もなく、イギリスの風俗喜劇から、アメリカの30年代のミュージカル、「戦後」のアーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズあたりの戯曲について「講義」をつづけた。

残念ながら東山 千栄子とは、舞台や放送の仕事でつきあう機会はなかった。