1872

2020年9月23日、歌手のジュリエット・グレコが亡くなった。
93歳。
南フランス、モンペリエの出身。あるいはコルシカ島の出身。レジスタンスに参加。母と姉は、ドイツのラータフエンスブリュック強制収容所に送られた。

このことは、ジュリエット・グレコの人生に大きな影響をあたえたと思われる。少女の身で一家離散の悲劇を経験したこと。戦後、誰もがレジスタンスに参加していたような顔をしたとき、戦時中に身をもってレジスタンスに参加した若い女性だったことは、ジュリエット・グレコの内面に深く刻まれている。

「戦後」、セーヌ左岸で、シャンソンの女王と呼ばれた。サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ。ジャン・ポール・サルトル。ボリス・ヴィアン。シモーヌ・ド・ボーヴォワール。

コクトオの映画、「オルフェ」に、女優として登場する。
カフェ「詩人の家」の前で一人の若者が車に撥ねられて死亡する。冥界の女王(マリア・カザレス)が、事故の目撃者として、居合わせた詩人「オルフェ」(ジャン・マレェ)を黄泉(よみ)の国につれて行く。「オルフェ」の妻(マリー・デア)は失踪した夫の捜索を警察に依頼する。「詩人」は帰宅するが、運転手は自殺した学生「ウルトビーズ」(フランソワ・ペリエ)である。「オルフェ」は、ふたたび姿をあらわした冥界の女王を追って「黄泉の国」につれ去る。

この映画で、ジュリエット・グレコは、ジャン・マレー、フランソワ・ペリエ、マリア・カザレス、マリー・デアにつづいて、ビリング/5だが、女優としてはまったく見るべきところがない。(この映画が、当時、ルイ・ジュヴェ演出でジャン・ルイ・バローが舞台に立った「スカパン」の装置を作ったクリスチャン・ベラールに捧げられている。クリスチャン・ベラールは、「スカパン」の稽古中に劇場で倒れた。心臓発作で亡くなっている。この映画を見て、コクトオがこの映画をクリスチャン・ベラールに捧げた意味が分かったような気がした。)

ただし、この時期のジュリエットは、女優として成功するとは思えなかった。女優としては、やはり「恋多き女」、「日はまた昇る」(57年)よりも、「悲しみよこんにちは」(58年)までまたなければならない。

ジュリエット・グレコのキャリアーは、はっきりいって、80年代までだったのではないか。サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの時代が去って行くにつれて、ジュリエット・グレコの時代も終わろうとしていた。

日本には20回以上来日しているが、私が見たのは、ジュリエットが引退する前、東京公演だった。87歳で、東京でリサイタルをする予定だったが、急遽、キャンセルした。体調をくずしたからだったと思う。

翌年、ジュリエットが引退する前の東京公演を見た。親しい女友だちと。
2014年9月26日、渋谷。

ステージのジュリエットは黒いドレスだった。戦前のダミアのように。

あのファッションに、しなやかなからだと、するどくとぎすまされた知性が隠されている。そして、もはや引退も間近な高齢なのに、聴衆の心をかきみだす何かがある。
はじめは、かつて世界的な名声を得た芸術家が身につけている特有のオーラなのだろうと思ったが、どうやらそうではなかった。あきらかに動きがにぶくなっているし、高音が出せない。しかし、衰えは感じさせない。
それでいて、私が見たものはジュリエットの、何に対しても心を開くような透明感のある誠実さ、としかいいようのないものだった。

シャンソニエにおける誠実さ(サンセリテ)とは何か。音楽学者なら、そのあたりうまく説明してくれるだろうが、ただの観客にすぎない私には、うまく説明することができない。ただ、ジュリエットのシャンソンは、「セーヌ左岸の女王」という光栄に包まれてステージに立って身につけてきた輝きと、いまや老齢に達して、ときに音程もおかしくなっている自分のあるがままとの、一種の置き換え(トランスポジション)にある。
当然、この日の観客たちも、それに気がついたと思う。

はるか後年に、ソヴィエト崩壊後に、来日したリューバ・カザルノフスカヤのリサイタル形式の「サロメ」を聞いた。おそらくキエフからの長旅の疲労のせいだろうが、リューバが高音のピッチを外したのを聞き届けた瞬間、私はジュリエット・グレコの歌を思い出した。

このときのリューバに、オペラ歌手が、みずから演じる誠実さ(サンセリテ)のドラマを私は見たように思った。それは、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)とは違うものだったが、私はリューバに感動したのだった。

これも余談だが、ジュリエットは、フィリップ・ルメールと離婚したあと、映画スターのミッシェル・ピコリと再婚している。(66年~77年)。私はミッシェル・ピコリにはあまり関心がなかったが、その後、ジュリエットと離婚した彼の回想を読んだ。この回想はおもしろかったが、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)にピコリは気がつかなかったのではないか、と思った。
ジュリエットは、ビコリとし離婚したあと、アメリカのジャズ奏者、マイルズ・デイヴィス相手のロマンスが伝えられた。

このロマンスについては、何も知らない。

マクロン大統領は、9月23日、ジュリエットの死を知って、

グレコの顔と声は、私たちの人生とともに生きつづけるだろう。サン・ジェルマン・デ・プレのミューズは永遠なのだ。

とツイッターに書き込んだ、という。

1871

2020年5月。世界経済は悪化の一途を辿っていた。ユーロ圏19カ国のGDPは、前年比、7.7%減の予測。1996年以降、最大の落ち込み。

私は、毎日、おなじような日々を過ごしていた。
本も読むには読むのだが、なにしろ根気がなくなっているので、なかなか読み進められない。
書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になったはずである。
この「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラーになったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラーになったのか。

この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

小説の 後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

この小説について、トーマス・マンは、

非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として大切な記録だ。

そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないでいただろう。

この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

この小説を読んだのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
現在のチャイナ・コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまった。当然のことだと思ふようにもなった。
ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切になった。

戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、その数が増してゆくのにおののいた。
また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬するような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索した。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言って嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

この小説が私の関心を喚び起こすのは、これが1930年に書かれていることなのだ。
やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

私は、新型コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、のんきに1920年代の、ドイツ反戦小説、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読んでいたのだった。

1870

何かやり残したことがあると気になって仕方がない。昨日、市立美術館に行ったが、休館日だった。たしかめてから出かけるべきだったのに。

翌日、美術館にたどり着いて、「初期浮世絵から北斎・広重まで」を見た。アメリカ人、メアリー・エインズワースのコレクション。
オバーリン大学・アレン・メモリアル美術館所蔵。メアリー(1867~1950)が集めた1500点のなかから、今回、200点を展示したもの。
浮世絵に関して、ほとんど知識のない私にとっても貴重に思える作品があった。あらためて、春信、歌麿の女たちの魅力に惹かれた。

ほかにすることもないので、サッシャ・ギトリの「あなたの目になりたい」(1933年)を見た。サッシャ・ギトリ、ミア・パレッリ。ジュヌヴィエーヴ・ギトリ。そしてマルグリート・モレノ。

じつは、拙著、「ルイ・ジュヴェ」のなかで――現在、マルグリート・モレノの映画を見る機会はほとんどないと書いた。当時は、そんなことを書いたのだが、マルグリート・モレノの映画がDVD化されたのでこの映画が見られるようになった。
ミアは、コクトオの「美女と野獣」に「サンドリオン」の姉の役で出ているが、33年当時は、「娘役」(ジューヌ・プレミエール)だったことがわかる。もう一つ、映画の途中、キャバレのシーンに物真似芸人が出てくる。あっと思った。

この芸人が、なんとルイ・ジュヴェの詩の朗読をパロディーしている。ジュヴェそっくり。物真似されるくらいだから、逆に、ジュヴェの人気が高かったことがわかる。この芸人はさらに、シャルル・デュラン、ミッシェル・シモンの物真似。おそらく、サッシャ・ギトリがこの三人のピエ・ド・ネェをやってみせたのか。この芸人の名はわからない。

こんなつまらないシーンを見て、当時のことをいろいろと想像する。

私の好きなTVの番組の一つは、「世界 なぜそこに日本人」。

今回は――アフリカ、マリ共和国、北部の寒村、マフェレニ村。電気も水道もない村に、村上 一枝という老婦人が住んでいる。78歳。

1940年、岩手県に生まれた。父は歯科医。無医村に巡回して無料で診察する医師だった。父の影響で、1958年、日本歯科大に入学。卒業後、結婚、歯科医になった。

38歳のとき、異常な激痛に襲われ診察を受けて、結核性子宮内膜炎、卵巣結核と診断され、子宮、卵巣を全摘。子どもの産めないからだになった。やがて、離婚した。

44歳で、小児歯科専門の医院をはじめ、年収、4000万円。

年に1度、海外旅行に出かける。たまたまサハラ砂漠観光に行ったとき、マリ共和国に立ち寄った。ここで――子どもが重い病気なのに病院に行くことができず、ただ死を待つばかりの現実を見た。
当時、マリの幼児の死亡率は高く、4人に1人が死亡していた。これを知った村上さんは、自分の診療所を売却、単身、マリにわたった。

これまでに、小学校、中学校を20校設立、助産院を11棟、設立した。現在、子どもの死亡率は、9人に1人になっている、という。

こういう日本人を見ると、私は感動する。こういう人生もあるのだ、と思う。むろん、おのれの人生とひき較べてだが。

この夜、寝る前に、新しいイヤフォンで、キャサリン・マクフィーを聞く。「I fall in love too easily」。ずっと印象がよくなった。前に聞いたときは、クラシック・ジャズのアレンジとして、それほどデキはよくないような気がした。久しぶりに聞きなおして、なぜキャサリンがジャズ・クラシックの歌唱法に戻ったのか少しわかったような気がする。