1868

自分のことを語るのは気がひけるのだが――60年代の私は、批評家として少しづつ変容の兆しをみせはじめていたような気がする。
マリリン・モンローの急死をきっかけに、私は評伝めいたものを書きはじめる。
一方、この64年、吉川 英治論を書いて、この翌年、小栗 虫太郎の「成吉思汗の後宮」解説、横溝 正史の「鬼火」解説などを書いている。かんたんにいえば、大衆文学のイデオローグへの変貌であった。
その頃の私は、ジャズにのめり込み、コールマン、ディジー・ガレスピー、ボブ・ディランなどについて書いている。ある週刊誌で、ほぼ4年にわたって、映画批評を書き続けていた。やがて、吉沢 正英との出会いから「日経」の映画批評を書くことになった。

たいして才能もない作家で、いっぽうでミステリーを書いたり、時代小説に手をつけたり、そうかとおもえば、ジャズやポップスについて、したりげに意見をのべたり、ようするに、うさんくさい物書きのひとりだった。

この頃、よく「映画化された世界の名作」といったエッセイを依頼されることが多くなった。
自作、それも未熟なエッセイをあらためて披露するのはおこの沙汰だが、耄呆(ボウボウ)の身なれば、あえてお許しいただく。

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世界の名作

文学作品で、世界の名作といわれるものは、ほとんどが映画化されている。
サイレント映画の歴史をしらべると、「ファウスト」、「復活」、「レ・ミゼラブル」、「マクベス」、「ロミオとジュリエット」、「モンテ・クリスト」といった映画がならんでいる。「アンナ・カレーニナ」、「ハムレット」のように、何度もリメイクされて、いずれもその時代の優れた作品にあげられるものもすくなくない。
なぜ、世界の名作が、映画化されるのか。
これには、はっきりした理由がある。
たいていの名作は、けっこうむずかしい内容をもっている。だから、ほとんどの読者は、名作のタイトルは知っていても、実際にその本を手にとることは少ない。ところが映画は、難しい原作を読まなくても、スクリーンを見るだけで、原作の内容がわかるので、観客は、こうした映画を歓迎する。
だから、「世界の名作」というと、普通の映画作品よりも高級なもののようにありがたがるのは無邪気な錯覚といってよい。

そのため、世界の名作の映画化などという作品を、はじめから軽蔑する人も多かった。
これも、ほんとうは無邪気な錯覚といっていい。

たしかに、世界の名作の映画化には、原作の筋(プロット)や、原作の香気も意味も無視した紙芝居のような作品が多かったことは事実だが、たとえばフランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを感動させたカステラーニの「ロミオとジュリエット」を比較すれば、その現代性、映像のあたらしさ、さらに
原作への肉薄ぶりから見て、やはりゼフィレッリに高い評価を与えられる。フランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを失望させたカス
テラーニの「ロミオとジュリエット」を比較すれば、どちらがいい映画なのか、はっきりわかる。そういう比較ができることも、世界の名作の映画化を見る楽しみのひとつ。この2本の映画の間に、おなじシェイクスピアをミュージカル化した「ウェストサイド物語」を置いてみると、世界の名作の映画化が、いまやたんなる原作のダイジェストにとどまらないことがわかってくる。

映画化しやすい作家の小説

世界の名作でも、何度もくり返して映画化されるものと、ながらく映画化が希望されながらなかなか映画化されない作品、または、せっかく映画化されても、映画としてはたいして評判にならなかったものと分かれる。
たとえば、小さな罪を犯して苦役ののちに、ふたたび盗みをはたらくが、神の慈悲によって改心するジャン・バルジャンの物語も何度もくり返して映画化されている。
戦前、アリ・ボールが主演した「レ・ミゼラブル」(レイモン・ベルナール監督)が記憶に残っているが、戦後では、ジャン・ギャバン主演の(ジャンポール・ル・シャノワ監督)があった。これは残念ながら愚作もいいところで、ジャン・ギャバンも生彩がなかった。けれど、ジェラール・ドゥパルデュー主演の「レ・ミゼラブル」などは、映画化された「レ・ミゼラブル」のなかでも、屈指の作品になっている。
おもしろいことに、19世紀の名作といえば、エミール・ゾラがいちばん映画化されて成功するらしく、「ジェルミナール」、「居酒屋」、「女優ナナ」など、いずれも映画史上に残るような作品で、ゾラほど映画化に向いている作家はいないように見える。

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 同時に、ゾラほど映画化に向いている作家はいないと書いたとき、私は映画の歴史を思い出していた。例えば、ジャック・フェデルの「テレーズ・ラカン」(1927年)や、ジュリアン・デュヴィヴィエの「女性の幸福に」など。「テレーズ・ラカン」は、ドイツの資本で作られた。それまでのフェデルのフランス的なエスプリに、ドイツ的な重厚さ、映画の造形性を加えた。この「テレーズ・ラカン」の成功で、ハリウッドに招かれて、グレタ・ガルボの最後のサイレント映画、「接吻」を演出する。ジュリアン・デュヴィヴィエの場合は、サイレントから脱却して、サウンド版で撮影した。こうしてデュヴィヴィエは世界的に知られて行く。)
しかし、私はそれを書かなかった。なぜなら、「文化クラブ」の読者たちが、私があげたかったジャック・フェデルや、ジュリアン・デュヴィヴィエに関心をもつとは思えなかったからである。

この雑誌の読者たちが関心を寄せる「世界文学の名作」といえば、せいぜい「風と共に去りぬ」程度だろう。私のエッセイが、ハリウッド映画よりも、フランス映画をとりあげていることがおもしろい。

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マリア・シェル主演の「居酒屋」のジェルヴェーズのみごとさも忘れられない。
おなじマリア・シェルで、モーパッサンの「女の一生」が映画化されているが、やはり原作の魅力が大きいだろう。
ジェルヴェーズの娘がナナだが、「女優ナナ」を撮った直後に自殺したメキシコ出身の女優、ルーペ・ペレスのことも忘れられない。ジェニファー・ジョーンズの「ボヴァリー夫人」は、映画化に成功しなかった。

女の一生

スタンダールの「赤と黒」は、クロード=オータン・ララ演出。
主人公「ジュリアン・ソレル」を、ジェラール・フィリップ。「レナール夫人」を
ダニエル・ダリュー、「マチルド」が新人だったアントネッラ・ルアルデイという
魅力あるキャストだった。「ジュリアン・ソレル」という野心に満ちた青年という永遠のタイプを芸術的に描きだしたオータン・ララの演出のすばらしさ。

「赤と黒」は、1920年に、イタリアの俳優、マリオ・ボナルトが、文芸映画として撮影した。これは、イタリアの文芸映画の路線を世界的にした。

これに対して、おなじジェラール・フィリップが主演したスタンダールの「パルムの僧院」などは、ただの通俗的な映画に終わっている。

通俗もの

デュマの「モンテ・クリスト伯爵」や「三銃士」などは、何度、映画化されたかわからない。
たとえば、「ファントマ」のシリーズ。「ハリー・ポッター」のシリーズ。
「ミッション・インポッシブル」のシリーズ。

こうしたシリーズは、サイレント活劇の原型にもなっていて、「名金」、「鉄の爪」から、現代の「007」のシリーズ、「ハリー・ポッター」のシリーズ。「スター・ウォーズ」のシリーズ。どのシリーズにも共通した、追いかけ、血湧き肉躍る冒険が、いつの世でも観客たちを楽しませている。

なぜ、シリーズ化されるのか。
旧ソヴィエトは、自国の大作を映画化することで有名だが、たとえば、「戦争と平
和」が大きな話題になった。演出は、これも有数の大作だった「人間の運命」のセルゲイ・ボンダルチュク。
1818年、ロシアに遠征したナポレオンに対して、ロシア側はモスクワを炎上させ、ボロジノで反撃してナポレオンを敗走させた。その150周年を記念して映画化されただけあって、俳優も豪華だったし、規模も巨大なものだった。

「戦争と平和」は、ハリウッドでもオードリー・ヘッブバーンの主演で映画化されている。オードリーの「ナターシャ」もすばらしかったが、リュドミラ・サベーリェワの「ナターシャ」も深い感動を残した。
ボンダルチュクは、「アンナ・カレーニナ」を撮っているが、フランスのデュヴィ
ヴィエが、イギリス女優、ヴィヴィアン・リーで「アンナ・カレーニナ」を撮った。

ドストエフスキーの場合

ドストエフスキーの映画化もさかんに行われている。1931年に、ソヴィエトで
「罪と罰」(ゲ・シローコフ監督)が公開されたが、スターリンの大粛清が、この年からはじまっていることと重ねあわせると、こんな映画にも別の見方ができる。
フランスの「罪と罰」(ピエール・シュナール監督)、戦後のロベール・オッセンの「罪と罰」がある。
「白痴」は、ソヴィエトのイ・ブイリェフのものと、日本の黒沢 明が翻案したものがある。
「カラマーゾフの兄弟」は、マリリン・モンローが「グルーシェンカ」の役をやりたがっていたが、マリア・シェルの「グルーシェンカ」で撮影された。

最後の結論

かつて、「嵐が丘」(ウィリアム・ワイラー監督)は、ヒースの生い茂る荒涼とし
た風物のなかで、はげしく、不幸な恋愛のすがたを描いた。この映画では若き日のローレンス・オリヴィエが「ヒースクリフ」を演じていた。

愛や死を通して、自分たちを取り巻く因習的な社会に反抗して生きようとする若い
人たちの姿を描いたD・H・ロレンスの「息子たちと恋人たち」の映画化は、ジャック・カーディフの演出だった。
親と子の世代の違い、そこにひそむクレディビリティー・ギャップ、性の解放といったテーマはやはり永遠の主題といえるだろう。

アメリカ論

アメリカの古典としては、いまやスタインベックの「怒りの葡萄」や、ヘミングウェイの「武器よ さらば」などが、なにがなしロマンティックな追憶を誘う。
私も、過去にずいぶんいろいろな名作をみてきたものだ。平凡な感想だが、ふと、
そんなことに感慨をおぼえる。

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ハリウッドで、映画を10本とれば、1本はヒット、2本はとんとん、あとの残りは、残念ながらフロップ。その映画に出た俳優、女優は、蒼くなって、次の映画を探し回る。
その映画を撮った映画監督は、たいていは、失業して、まともな映画も撮れなくなる。
そんな現実があるから、「世界の名作」の映画化が企画される。
なにしろ、原作者がどんなに有名でも原作料を払わずにすむ。

これで、私のエッセイはおしまい。

(つづく)