1863

私が少年時代を過ごしたのは、東北の都市、仙台市だった。

仙台市は伊達 政宗の所領で、現在も居城、青葉城址がある。なだらかな丘陵に沿って大きく蛇行しながら、市内を一級河川、広瀬川が流れている。さして水量は多くないが、雨期に入ると、水勢がつよくなって、対岸の越路(こしぢ)あたりは氾濫する危険があった。 私の一家が住んだのは、広瀬川にかけられた橋の一つ、あたご橋のたもと、当時、土樋(つちどい)という地名で、崖の上の家だった。門構えともいえない貧弱な門がついていた。その門のとなりに、梁川庄八首洗いの池という立て札があって、二畳ほどの長方形に大谷石で囲んだ池があった。緑青色によどんで、薄気味のわるい池だった。
立て札の由来は、梁川庄八という下級武士が、伊達家の家老、茂庭周防守(すわのかみ)を青葉城下に邀撃(ようげき)、その首をはねて逃げた。逃げる途中で、橋のたもとの池で血のしたたる周防の首を洗ったという。この実録は戦前の講談で知られている。
小学校の同級に、茂庭周防守の子孫にあたる少年がいた。私とおなじ背恰好だったので、仲良しになった。後年、柔道五段で、宮城県の柔道界の重鎮になったという。

少年時代の私は、よくこの橋をわたって地名にわかりのあたご山にのぼった。石段がつづいて、頂きに無人のあたご神社があり、そのあたりは鬱蒼と樹がしげっている。この頂から仙台市内が一望できるのだった。

このあたご山から、さらに奥の向山(むこうやま)、八木山(やぎやま)まで歩く。ハイキング・コースといってもいい距離だった。途中、伊達家の菩提寺のある経ガ峰も、青葉山のつらなりの一つで、ツツジの咲く季節がいちばん美しかった。