コロナ・ウイルスの5月にふさわしくない詩を。
LA NUIT DE MAI
LA MUSE
Poète, prends ton luth et me donne un baiser ;
La fleur de l’églantier sent ses bourgeons éclore,
Le printemps naît ce soir ; les vents vont s’embraser ;
Et la bergeronnette, en attendant l’aurore,
Aux premiers buissons verts commence à se poser.
Poète, prends ton luth, et me donne un baiser.
アルフレッド・ド・ミュッセ。
「五月の夜」の LA MUSE(ラ・ミューズ)。冒頭の一節。
声に出して読むと、五月、おぼろながら、どこかねっとりした風がさわやかに吹いてくる。この詩は、詩人と女神(ミューズ)の対話。リュートは、竪琴(たてごと)。
上田 敏の名訳がある。
うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。
はつざきの はなそうび さきいでて
このゆうべ かぜぬるし、はるはきぬ。
あけぼのを まつや かのにはただき
あさみどり、わかえだに うつりなく
うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。
さすがにいい訳になっている。
ただし、今の私には、どこか違和感がある。ミュッセの詩は、こんなものだったのか。上田 敏訳はたしかに名訳といっていいのだが、なにか肝心のところを抑えていないような気がする。
明治時代の訳だからことさら古びて見えるのか。
うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。
詩人にむかって竪琴(たてごと)を奏でつつ、唇を寄せるがいい、という呼びかけの、いわば肉感性が出せなかったのか。prendsが命令形なのだから、竪琴(たてごと)を手にして恋人の唇を奪えといい切る強さが出せなかったのか。
たとえば――「巷に雨の降るごとく 我の心に雨が降る」というヴェルレーヌの有名な詩を、
都に雨の降るさまに、
涙、雨降る わがこころ、
わが胸にかく泌(しみ)てゆく、
この倦怠(けだるさ)は何ならむ。
と訳した若者がいる。はるか後年、英文学の泰斗として知られた矢野 峰人。これもいい訳だが、最後の部分、私としてはどこか納得できない。
別の訳例をあげようか。(矢野 峰人の訳ではない。)
泉が自分の霊から湧いて出んでは
心身を爽やかにすることができない
明治時代の、「ファウスト」訳。これがゲーテの訳なのか。失望した。
永井 荷風ならどう訳したろうか。
たまたま、荷風が「戦後」(1946年)に発表した「問はずがたり」の冒頭に、ミュッセの詩、1行が掲げてある。
修らぬ行(おこない)は世に飽きし無聊のため、
歎き悲しむ心は生れながら。
これはすごい。私はひたすら感嘆した。「問はずがたり」は、「戦後」の荷風、再出発を告げる作品だったが、石川 淳などの貶降(へんこう)を受けた。今の私は、あらためて、「戦後」の荷風に敬意をもっているが、このミュッセ1行に託した荷風の鞜晦(とうかい)に驚嘆する。
そして、 荷風は詩を訳しても一流の翻訳家だったと思う。