1838 (2020年4~5月の記録)

私のように平凡な作家でも、幼年期から少年期にかけて、いくつか忘れられない情景がある。

5歳か6歳の頃。

ある日、私は父につれられて活動写真を見に行った。何を見たのかおぼえていない。
(後年、私が見た映画は、「乃木将軍と辻占売り」というタイトルで、山本 嘉一が「乃木稀典」だったのではないか、と思った。)

その活動写真の休憩時間に、シャツにツナギの作業服を着た労働者が出てきて、スクリーンの前で激烈な演説をはじめた。若い俳優で嵯峨 善兵という。

この俳優が何をしゃべったのか、幼い私にはわからなかったが、このアジ演説に館内の観客たちが立ち上がってさわぎはじめた。

当時の映画館には、銭湯の番台のような臨検席という囲いがあって、制服の巡査がその席からスクリーンを見ていることがあった。このときも巡査が立ち会っていた。
その巡査が立ちあがって、観衆のさわぎを静めようとした。ところが、観客の怒号がつづき、巡査に詰め寄って、館内で殴りあいのケンカがはじまった。

何が起こったのかわからないが、私は、殴りあいの乱闘をする大人たちに恐怖をおぼえた。父はもみあう人たちに巻き込まれまいとしながら、私を守ろうとして、やっとのことで館内から脱出した。
このできごとは幼い記憶に刻まれた。

私の内面には群衆に対する恐怖がある。