(つづき)
せっかくの機会ですから、もう少し書いておきます。
「ルイ・ジュヴェ」を書きあげたあと、私はもっと書きたいことがあるのに、これで終わってしまうのは残念な気がしました。しかし、いちおう書きあげたのだから、これでよしとしなければならない。これだけでも長すぎる作品なので、当時、不況のさなか出版できる可能性はなかったのでした。それまで、どんな本を書いても出版できないことはなかったのですが、私の仕事を担当してくれていた編集者たちもつぎつぎに他界したため、「ルイ・ジュヴェ」を出してくれるところはなかったのです。
やっと出せることになってからも屈辱的なことがつづきました。私は、とにかく出せればいいと思っていました。たとえ少数であっても、この本が出るのを心待ちにしている読者がいる。そう思うことで耐えてきたのでした。
「あとがき」の冒頭の一行、
ようやく評伝 「ルイ・ジュヴェとその時代」が出版されることになった。
には、私の感慨というより、やみがたい無念の思いがこめられているのです。
つまらないことを書きました。話題を変えましょう。
ジュヴェがアテネで倒れたとき、ワンダ・ケリアン、モニック・メリナンたちが一緒でした。そのひとりに、フランソワーズ・ドルレアックがいました。後年、映画スターになった美少女です。当時、17歳。私は、このフランソワーズの名をあげただけで、あとは何も説明しませんでした。実は、彼女は「権力と栄光」でジュヴェが抜擢した女優でしたが、ジュヴェが亡くなったため、「権力と栄光」に出演することがなかったのです。このフランソワーズの妹は、当時、7歳。
妹の名は、カトリーヌ・ドヌーヴ。
フランソワーズ・ドルレアックと、カトリーヌ・ドヌーヴは、「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)で共演しました。双子の姉妹の役で、「世界でいちばん美しい姉妹」と呼ばれました。いたましいことですが、映画の完成直後にフランソワーズは交通事故で亡くなっています。
つい昨年(2019年)「カトリーヌ・ドヌーヴの言葉」(大和書房)という美しい本を書いた作家、山口 路子さんに会う機会がありました。カトリーヌのことから、フランソワーズが話題になりました。私が、
「ジュヴェがアトリエで倒れた日、最後まで付き添ったひとりが誰だか知ってる?」
「え?」山口 路子さんは驚いたようでした。
「フランソワーズ・ドルレアックだよ」
私が「ルイ・ジュヴェ」で、書かなかったことはたくさんあります。たとえば、晩年のジュヴェが来日する可能性が大きかったこと。ジュヴェがもう少し生きていたら、おそらく来日していたでしょう。
私は、当時、親友だった椎野 英之と雑談していたとき、ジュヴェがアメリカで巡業することを話題にしました。当時、日本は占領下にありましたが、講和条約がサンフランシスコで調印されることがきまっていました。
ジュヴェが、アメリカにくるのなら日本に巡業することも夢ではない。
ジュヴェを日本に呼ぶことはできないだろうか、私たちは小林 一三あたりに話をもっていけば、不可能ではないなどと話しあって、舞いあがりました。
椎野は、この話を「東宝」の森 岩雄にもってゆくことにしました。私は劇作家の内村 直也さん、当時「文学座」総務で、「文化放送」の演芸部長になっていた原 千代海さんに相談しました。おふたりは、かならずしも不可能ではないと考えてくれたのでした。
こうして、私と椎野 英之のたあいのない空想はかなり急速に具体化してゆきました。
もう誰も知らないことですが、それほど具体的な交渉があったのです。残念なことに、この交渉の直後にジュヴェは亡くなりましたが。
ジュヴェ訪日のことに関わった少数の人たち、内村 直也、「東宝」の重役だった森岩雄、NHKのプロデューサーだった堀江 史朗、「東宝」にいた椎野 英之(のちにプロデューサー)などもすでに亡くなって、事実を伝える証言が得られなかったからです。
はるか後年、ある人を介して森 岩雄さんにおめにかかりたいとおねがいしましたが、僧籍に入られていた森さんは、過去のことは語らないとして拒否されました。
じつは、ジュヴェに連絡できるルートは、ほかにもありました。ジュヴェと親しい日本女性がいたのです。この女性のことも「ルイ・ジュヴェ」では書きませんでした。
残念ながら。
ジュヴェ年譜、1941年の「世界のおもな事項」の末尾に、
「画家ロックウェル、クリスマスに『イエス生誕を見守る人々』を描く」という一行があります。私の「いたずら」ですが、このブログで、私がなぜ、こんな一行を書いておいたのか、その理由は、このブログに書いておきましたが。
コロナ・ウイルスの恐怖がつづいているさなか、あなたのような熱心な読者がいると知って、あらためて自分が作家として「ルイ・ジュヴェ」を書いておいたことを誇りに思っております。
ありがとう。