1824

2020年、私は友人たちに手紙さえも書かなくなっていた。何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?)
よく知っているはずの人名が出てこない。

知っている漢字が書けない。

3月11日。劇作家、別役 実(82歳)、マックス・フォン・シドー(90歳)、「宝塚」の真帆 志ぶき(87歳)の訃を聞いた。別役 実は、吉沢(正英)君が心服していた劇作家だった。私は「マッチ売りの少女」、「赤い鳥の居る風景」ぐらいしか知らない。マックス・フォン・シドーは、だいたい見ている。すぐれた俳優の一人。真帆 志ぶきは見たことはあるのだが、もう40年も前のことで、ほとんど印象が薄れている。

3月、妻の3周忌をすませたが、4月、思いがけない訃報を知った。

深田 甫氏 85歳(ふかだ はじめ)=慶応大名誉教授)3月26日、心不全
で死去。告別式は近親者で行った。喪主は長男、独(ひとり)氏。
専門はドイツ文学。「ホフマン全集」(全9巻11冊)の翻訳を手がけた。著
書に「詩集・沼での仮象(かしょう)」など。

短い記事だったが、驚きは大きかった。深田 甫が亡くなったのか。悲しみよりも、混乱が心に吹き上げてきた。同時に、映子さんのことが重なりあっていた。
深田君は英語も堪能で、グレアム・グリーンの「メキシコ紀行」の翻訳を依頼したのは私だった。当時の私は、小さな劇団をひきいてきわめて多忙だったが、深田君は慶応大の助教授としてドイツに派遣されたため、この本の校正を見たのも、解説を書いたのも私だった。その間、私は深田 映子さんと親しくなった。
その後、私は翻訳から少しづつ離れて、イタリアのルネサンスに目を向けはじめたが、おなじ時期に「翻訳家養成センター」という小さな教室で翻訳家志望の生徒たちを指導するようになった。
この教室はやがて「バベル」と改称して、学校としての体裁をととのえてゆく。
その「バベル」で、深田君はドイツ語のクラスを担当していた。
この時期、やはり友人だった常盤 新平、翻訳家の小鷹 信光も、「バベル」の講師だった。一時期、松山 俊太郎も、私の紹介で「バベル」の講師に招いたのだが、その頃の「バベル」は、いちばん輝いていたかも知れない。

ほんの一時期だが、深田君は美髯をたくわえていた。まるでトルストイじゃないか、とからかってやったことがある。
やがて、深田 甫とも疎遠になった。「バベル」での出講日は別の曜日だったから、お互いに会うこともなくなっていた。
最後に深田 甫に会ったのは、もう20数年も昔のことになる。

2020年、私はまた一人友人を失った。

(再開 6)