安東 忞(つとむ)が亡くなったとき、私の胸に悲しみが吹き荒れていた。彼が不治の病に倒れたことは知っていたが、現実に私より先に亡くなるとは予想もしなかった。
夫人の真喜志 順子が知らせてくれたとき、私はことばもなく立ちつくしていた。
本来なら、すぐにもお通夜、葬儀にかけつけるところだったが、それさえもできなかった。せめて葬儀には出たかった。いいえ、それよりも前に病床の安東を見舞って声をかけてやりたかった。それなのに、現実の私はそんなことさえもできないのだった。
安東 つとむとふたりで北アルプスに行ったことを思い出す。当時の私は、いつも明大の学生たちと手頃な山を歩いていたのだが、この日、誰ひとり参加しなかったのでひとりで別の山に登ることにしたのだった。
私の登山スタイルは、まことに気楽なもので、新宿駅の10番線のプラットフォームで当日の参加者を待つ。時間厳守ときめていた。
いつも15分待って、その時点にプラットフォームにきた人たちだけで出発する。天候を見て行き先をきめる。奥多摩にするか、秩父にするか。参加者の体調によって高水三山にするか、誰も知らない金峰か大烏山あたりを選ぶか。
しばらく待っていたが約束の集合時間に誰もこなかった。やむを得ない。予定を変更して、単独行にしよう。
私は、すぐに別のプラットフォームに移って、出発間際の急行「あずさ」に乗り込んだ。座席をとったところに、安東 つとむが姿を見せた。10番線のプラットフォームに着いたとき、別のプラットフォームにいそぐ私を見て、すぐに私が別のプランに変更したと判断して追いかけてきた。
「今日は、どこにしますか」安東がいった。
「きみとふたりだけなら、北(アルプス)にしよう」
私の登山は、いつも同行のパートナー次第できめていた。その日の天候と各自の体力、行動できる時間的な余裕、所持金とザックの中身から目的地をきめる。初心者と一緒の場合なら、せいぜい奥多摩か秩父、もう少し上級なら、上州か、八ガ岳あたり。何時も、新宿の10番線のプラットフォームできめることにしていた。私がもの書きで、安東が編集者だったから、時間的な制約はなかった。
私は夏のアルプス銀座などは絶対に登らない。おびただしい登山者が長蛇の列をなして、きめられたコースを登るような名山は始めから選ばない。登山コースにひしめいて、前を歩く登山者の尻ばかり見ながら登るなど、愚の骨頂。むしろ、誰も登らない山を探し出して、たとえ廃道をたどってでも山頂をめざす。たとえば、ガラン谷などは、一歩、道をあやまれば遭難も覚悟しなければならない。そういうコースを探しだすのが、私のスタイルだった。
私はいつも地図や非常用のツェルトを用意していた。
この日の登山はいつになく苦しい山行になった。
ようやく雪の雑木林を出ると、道は山裾にそってうねりながら、小さな部落に続いていた。道の片側にひろがる平地は、降りつもった雪が、あたりの田んぼをひとまとめに白く埋めているので、低い丘のつらなりに見える。
私は、あえぎながら歩きつづけていた。もう何時間歩きつづけているのか。
バス停まで、まだ2時間はかかるだろう。最終のバスに間に合うかどうかが問題だが。疲労がザックの重みになってずっしりとひろがってくる。
ひたすら歩きつづけた。沈む夕日を追いかけるような足どりになった。
虚空には微妙な光がただよっていた。あたりの風景から暗い部分を取り去って、最後の瞬間だけを残したような明るさだった。
安東も黙々と歩きつづけている。部落に近づいたころ、山のてっぺんが一点の輝きになって消えるのを見届けた。
バス停の標識に小さな時刻表があった。一日、朝夕2往復。夕方のバスは、もう30分も前に出てしまった。
くそっ。もう少し早く下山していれば、こんなことにならなかったのに。このコースを甘く見た自分を罵りながら、また歩きはじめる。
大雪に 藪 バス停の 切り通し
このときから安東 つとむは私にとって最高のパートナーになった。
その後、安東は、私と「日経」の記者だった吉沢 正英、ときに石井 秀明といっしょにいろいろな山に登った。安東は、いつも登山の仲間として私の少し前を歩いて私を助けてくれたのだった。
安東 つとむの思い出は、いつもお互いの実力より少し上をめざした苦しい登山や、私がリーダー、安東がサブについて、大学や「バベル」のクラスの若い女の子たちと一緒に低い山を歩いたハイキングと重なりあっている。
冬の墓 わが跫音を聞くばかり 西 鶴
順子さんから夫君の訃報を知らされたとき、どういうものかこの一句を思い出した。お互いに何の関係もない西鶴の句が、私の内面では、在りし日の安東 つとむの姿に重なってくる。この句が、安東への私の追悼の思いに重なっていた。
安東については、いずれまた書くことがあるだろう。
その安東がこの世を去った。また一人、私は親友を失ったのだった。
さらば、友よ。
(再開 4)