1817〈1977~78年日記 64〉

 

1978年5月2日(火)
朝、6時半、江古田に。
昨夜、よく眠っていないので、電車の中で眠った。
8時25分、江古田に着いた。すぐに胃カメラの検査。
胃カメラによる検査が不快なものと、こだまさんから聞いていた。胃カメラを飲んだあと、食道に痛みが残るとも、小泉(義兄)先生から聞いていた。カメラはうまく嚥下できたが、胃の各部位を撮って、カメラをひき揚げるときが不快で、一度は胃液が咽喉まで逆流して、咳き込むと、咽喉が痙攣した。担当の医師が、声を荒げて、
――大丈夫だ! 我慢しろ!
と怒鳴りつける。
胃の検査で、胃が良好な状態の場合は、担当医が落ちついた声で、
――大丈夫ですよ。
と声をかけてくれるそうな。ところが、大丈夫だ! 我慢しろ! などと、どなられると、一種の直観めいたものがはたらく。ひょっとすると、悪性なのかも。むろん、そんなふうに感じるのは、こちら側の猜疑心なのだが。

江古田から池袋に出た。胃が不快だったし、肩に麻酔の注射を打たれているので、どうも調子がよくない。
レストラン。スパゲッティ、ミルクセーキ。

NHK、山田 卓さんに会う。「コロンバン」。
山田さんは――マリリン・モンローの資料を読めば読むほど、彼女の輪郭が曖昧になってくる、という。しばらく話をする。

地下鉄でお茶の水に。

「誠志堂」、「松村」、「岩波」と歩いて本を買う。「地球堂」。バークリーで撮ったポートレートの引き伸ばし。葬式に使えるように。

「集英社」、新福君に会う。
10年前の仕事が文庫化されるのだが、今回は新福君が担当している。ヒロインの内面にひそんでいる喪失感、痛み、怒り、孤独感、あきらめ、心の揺れ、そして、かすかな希望。そんな一つひとつが、私の訳でじゅうぶんに出せているかどうか。私としては最低の仕事のひとつ。

大学の講義。
「中田パーティー」がきている。
平野さんの葬儀のとき、私がいっしょにお焼香をした女子学生がきている。いつもなら、「中田パーティー」のメンバーと、「平和亭」あたりに行くのだが、この女子学生が私に会いにきたので、みんなと別れて「あくね」に行く。
小川 茂久は、帰ったあと。
この女子学生は、平野さんの講義を受けていた。卒業したあと、茨城県の高校の先生になった。Y.K.さん。どうも、女子学生にしては、落ちついていると思った。
いろいろ話がはずんで、最終電車にやっと間にあった。

 

 

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1978年5月6日(土)
「メディチ」、第三章。

夜、アーサー・ヘイリーの「マネー・チェンジャーズ」を見た。
以前、レオン・ユリス原作の「QB Ⅶ」とおなじようにベストセラーのテレビ映画化で、5時間に及ぶ大作だった。ようするに、短いパッケージ・ドラマに食傷した視聴者に、しっかりした企画で、規模の大きなドラマを、ベスト・キャストで見てもらうというもの。私の想像では、「スター・ウォーズ」、「未知との遭遇」などに対抗したドラマだが、結果としては、ハリウッドの大作映画のテレビ版というだけに終わっている。

 

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1978年5月7日(日)
庭師の大塚さん夫婦がきてくれた。
「サンシュウ」、「ぐみ」、「ライラック」を植えてもらう。私が、バークリーでひろってきた種は、なんとか根がついて、小さな木のかたちになった。

 

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1978年5月8日(月)・
体調がよくない。昨日は蕁麻疹が出た。
エドナ・オブライエン、校正。
バークリー、エリカの隣人で、黒人の男の子に写真を送ってやったのだが、お礼の返事がきた。きっと、母親が書いたものだろう。
「Y.K」から手紙。

 

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1978年5月9日(火)
午後、「練馬総合病院」に行く。
胃カメラ、検査の結果を聞く。さいわい無事だった。担当の向田医師が、
――大丈夫ですね。なんともありません。
といったので、ほっとした。
この一ヵ月、腹痛があったり、胃がやけたり、どうも不調だった。これで、後顧の憂いなく仕事に専念できる。
地下鉄で、飯田橋に。タクシーをつかまえようとしたが、ひどい混雑だった。歩くか。
雨模様で、湿度が高く、汗がにじむ。
「地球堂」で、写真を受けとる。バークリーで、エリカが撮ってくれたものの引き伸ばし。古書展。最近、古書の値あがりがはげしい。

「山ノ上」、「二見」の長谷川君。

大学。関口 功に会う。久しぶりだった。私と同じ時間に、ヘミングウェイをよんでいるという。「フランシス・マコーマー」。
私のクラスは、あい変わらず出席者が多いが、それでも五月病のせいで、だんだん少なくなってくる。
講義のあと、国井 ますみ、小村 ふみ子が待っていた。Y.Kが、少し離れた位置で、目礼する。私が声をかければ、また終電になってしまう。

 

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1978年5月10日(水)
イタリアのモロ前首相の遺体が、9日、ヴェネツィア広場付近で発見された。過激派、「赤い旅団」によって処刑されたもの。死後、10~24時間が経過している。
この事件は、西ドイツのシュライヤー事件とならんで、歴史に残るだろう。
「赤い旅団」は、イタリア最大の過激派グループで、メンバーは200~400名程度だが、60年代の大学闘争の残存分子といわれる。イタリアは、過激派のテロ行為が猖蠍(しょうけつ)をきわめているが、これもデモクラシー社会に内在する矛盾の一つに違いない。イタリア社会の若年層に失業者が多く、経済的な混乱に乗じた暴力と見てよい。キリスト教民主党の体質にも問題がある。

要 修 正
モロ前首相の遺体発見のニューズは、ヨーロッパ各国に甚大な衝撃をあたえた。ローマでは、市民が自発的に抗議デモを起こし、各地で抗議デモ、ストライキが起きている。
「赤い旅団」は、60年代の学生運動の落し子で、彼らの戦略は、体制の中核を襲撃し、右翼勢力を政治の舞台にひきずり出し、プロレタリアートの自覚をうながし、内戦にもち込み、革命をめざすという。こうした理論構築が、どこまで有効なのか。都市ゲリラ化した過激派の運動が、とにかく前首相を殺害し得たことは、イタリア社会の脆弱な体質を物語っている。
私は、イタリアの現状にますます大きな関心をもつようになっている。

午後1時、「アートコーヒー」で、「二見」の長谷川君。すぐに「ヤクルトホール」に行く。
「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)。

田中 小実昌、吉行 淳之介が見にきていた。

ブルックリンに住んでいる「トニー」(ジョン・トラボルタ)は、塗装屋の職人だが、土曜日の夜は、ディスコに行って踊りまくる。3週間後に開かれるダンス・コンテストに出るために、「ステファニー」(カレン・リン・ゴーニー)

「ニューヨーク・マガジン」76年6月に出た実話の映画化。

車のなかで、推薦文を書いて、「二見」の長谷川君にわたす。
「中央公論」のすぐ前の喫茶店で、「集英社」の新海君に校正。
そのあと、「中央公論」の春名 章さんに会って、新しい仕事のリストをわたす。
ここから、NHKに。
山田 卓、平松両氏とうちあわせ。本間 長世先生がきた。
6時45分頃から、ビデオの撮影。

6時、「山ノ上」。Y.K.に会う。

「あくね」に行く。
平田 次三郎さんがいた。平田さんは、「近代文学」の同人だったし、私も親しくしていただいた。すっかり老け込んでいる。
声がかれて、何をしゃべっているのかわからない。
10時半まで、平田さんにつきあった。

 

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1978年5月11日(木)・
10日、バッキンガム宮殿は、マーガレット王女と、スノードン卿が離婚に同意したと発表した。
エリザベス女王の実妹であるマーガレットは、12年間の結婚生活のあと、76年3月から、スノードン卿との別居生活に入っていた。イギリス法では、2年間別居すれば、双方の合意のもとで離婚の申請ができる。離婚手続きが簡単になり、費用は16ポンドですむ。マーガレットは、離婚のために別居したらしい。それより先、マーガレットは、ポップ・シンガー、ロディ・ルウェリンと情交関係にはいったらしく、この数カ月、ジャーナリズムからはげしい批判を受けていた。マーガレットは、このシンガー(30歳)と逢瀬を楽しむため、カリブ海のムスティーク島に豪奢な別荘を建てた。この3月、大衆紙、「ザ・サン」が、水着姿のふたりの写真を発表したため、世論が悪化した。王女のスキャンダルは、バッキンガムにとっては頭の痛い問題になる。マーガレット王女は、年額、5万5000ポンドの歳費を支給されているが、イギリス議会は王室の歳費値上げ案が提出される時期で、労働党議員が、このスキャンダルを持ち出して、値上げ案に反対することは必至だった。
マーガレットの居城、ケンジントン・パレスは、「王女に再婚の予定はない」と発表。
スノードン卿は、「われわれはコメントする立場にない」と弁明した。
ルウェリンも、王女と結婚する可能性はないと見られている。
私は、マーガレット王女のスキャンダルに関心はない。ただ、今後、スノードン卿はどうなるのか。貴族の身分は保証されるだろうが、ふたりの間に生まれたリンレイ子爵が、スノードン卿を襲爵するのだろうか。
イギリスに革命が起きるとか、王制の廃止といった事態が起きる可能性はきわめて低い。しかし、マーガレット王女のスキャンダルは、イギリス史に翳りを落とすことになることは確実と思われる。

1955年、マーガレット王女は、ピーター・タウンゼント大佐との結婚を断念した。
それから5年、1960年、マーガレットは、アントニー・アームストロング・ジョーンズ(スノードン卿)と結婚した。当時、29歳。この結婚はイギリスじゅうが祝福したといっていい。やがて一男一女に恵まれたが、一昨年から、夫妻の不和がつたえられるようになった。
マーガレットとスノードン卿は別居した。

現在、30歳になるロディ・ルウェリンが、はじめてマーガレット王女と出会ったのはスコットランドにある王女の友人の別荘で、王女は17歳年下のロディと「わりなき仲」になった。ロディの父は上流階級出身、オリンピックに出場して馬術のゴールド・メダリスト。ロディは、スノードン卿とおなじイートン校に入ったが、大学には進まず、造園技師になったり、今年の2月、王女の後援で、ロック歌手としてレコードを出すような経歴。
マーガレット王女のロマンスに関心はないが、日記に書き留めておくのは、いつかこの宮廷悲劇は、劇化されるのではないかと予想する。どういう形で舞台化されるかわからないが、イギリスの輝かしい社交劇、風俗劇の伝統に、マーガレットの恋愛はかっこうのものになると予想する。その時代の名女優なら、きっとやってみたい劇になるだろう。
私の妄想の一つだが。

 

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1978年5月12日(金)
午前中、「中間小説時評」を書く。
書き上げないうちに、戸部さん。来訪。少し待っていただく。
百合子が食事を出した。お子サンがネコをほしがっているとか。家じゅうの壁に、「ネコを飼え」というビラを貼っている。
わが家では、ネコの「ルミ」が子を生んだばかりなので、もらい手があったら、ネコの子をさしあげるのだが、まだ目も開けないコネコなので、黙っていた。

夜、テレビで「大脱走」(ジョン・スタージェス監督/1963年)を見た。
1942年、北ドイツ。
ドイツの捕虜収容所から集団で脱走した連合軍兵士たち。251人。
スティーヴ・マックィーン、ジェームズ・ ガーナー< チャールズ・>ブロンソン、ジェームス・コバーン。
原作は、ポール・ブリックヒル、脚色がジェームズ・クラベル、W・R・バーネットだったことなど、誰も気にかけない。
アクションものは、こういうふうに、つぎからつぎにサスペンスを追って行くのが本領だろう。

 

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1978年5月13日(土)
午後3時。大川 修司、宇尾 房子、児玉 品子さん。
水谷 不倒の「平賀源内」を読む。

夜、百合子といっしょに、料亭「さざえ」に行く。
義母、湯浅 かおるを囲んで、小泉 隆、賀江夫妻と私たち、5人で会食。
明日が母の日だが、1日早い祝宴。あわせて、義姉、小泉 賀江の誕生日なので。

 

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1978年5月14日(日)
やや曇り、全体としては晴れ。
朝の「美術散歩」で「レオナルド・ダヴィンチ」を見た。

「メディチ家」にまつわる悲劇を考える。

イタリア・ルネサンスを研究する上で、「メディチ家」の研究は欠くべからざるものだが、ほとんどはメディチ家の支配形態の叙述に終始している。私は、それぞれの時代にいきた「メディチ家」の人々の人生を追ってみたい。
たとえば、ビアンカ。
ビアンカ・カッペロ・ボナヴェントウリ。

 

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1978年5月15日(月)
1847年版の「ロレンツォ・デ・メディチ」を読む。
これほどの本が、19世紀に書かれていたことに驚嘆した。
ブルクハルトと比較してみた。当時、ブルクハルト、29歳。イタリアに旅行している。彼がゲーテやヴィンケルマンのいう古典的な世界に大きく転回した時期だが、おなじ時期に、こういう篤実な学者がメディチ家の研究に没頭していた。
翌年、「共産党宣言」が発表される。フランスの二月革命、ドイツの三月革命。
この「ロレンツォ・デ・メディチ」が書かれたのは、はるか以前のことで、ファブローニの研究にあきたらなかった著者が、ハーグ版の「メディチ家編年史」を入手して、勇躍、「ロレンツォ・デ・メディチ」に着手したという。
19世紀の史学の、わかわかしい息吹きが感じられて、うれしかった。これに対して、現代の、たとえば、去年出版されたヘールの著作などは、ずっとすっきりまとまっているが、よくいえば冷静、わるくいえば感動のない研究に過ぎない。

 

 

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1978年5月16日(火)
「中田ファミリー」。安東夫妻、鈴木 和子、工藤 敦子、石井 秀明、中村 継男たちと、テレビの見られる店を探した。なかなか見つからない。
三崎町のスナック。NHK、「歴史と文明」シリーズ、「美の墓碑銘・マリリン・モンロー」を見た。野坂 昭如、塩野 七生などが出ていた。
マリリンについては、あまり「発見」はない。

「あくね」に寄る。

 

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1978年5月17日(水)
「メディチ家」ノート。

いつか発表したいと思う。しかし、発表できる場所がない。

 

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1978年5月18日(木)
雨。コイが1尾、死んだ。残念。このコイは尾腐れ病にかかっていたので、クスリをつけて、隔離したのだが、手遅れだったらしい。

チャプリンの遺体が発見された。
レマン湖畔の墓地に眠るチャプリンの遺体が、なにものかに盗まれて行方不明になっていたが、17日、スイス警察当局は、柩を発見、犯人(2名と見られる)を逮捕したと発表した。

「メディチ家」ノート。

山本 由鷹、大畑 靖、スズキ シンイチさんから手紙。
スズキ シン一は、博多人形を送ってくれた。昨日は、北海道の早川 平君が、スズランを送ってくれた。

いい友人に恵まれたことをありがたく思う。

いい友人といえば――今 日出海が「芸術新潮」に、「メディチ家」に関するモノグラフィーを発表していたことを思い出して、「県立」の司書、渋谷 哲成君をわずらわせて、調べてもらった。竹内 紀吉君の友人。
すぐに調べてくれたが――この連載は6回で打ち切られているという。
不評だったのか。あるいは、編集者が「メディチ家」に興味がなかったのか。

今 日出海さんには面識がない。しかし、戦時中、空襲にそなえて、本の整理をする要員として、斉藤 正直先生から、頼まれて、渋谷・金王町の今さんの邸宅に寝泊まりして、今さんの蔵書を片っぱしから読みあさった。
この時期のことは、「おお季節よ 城よ」に書いたが、今 日出海さんに会う機会があったら、お礼を申しあげたかった。
はるか後年、私は、ある女子大の教壇に立ったが、このとき、今 日出海さんのお嬢さんが教授だったので、戦時中の今さんの邸宅のようすなどを話したことがあった。
今さんが手がけようとした「メディチ家」について、今、私が調べはじめている。なんとなく、縁(ゆかり)のようなものをおぼえている。

夜、百合子がきゅうに腹痛を起こした。嘔吐。顔が青ざめている。
すぐに、小泉 賀江に連絡した。
義兄、小泉 隆が往診してくれた。
今日の百合子は、銀行に行ったり、近所の石橋家の葬儀に出たり、いろいろあって、胃が食べ物を受けつけなかったらしい。
私は、ずっと夜明けまで起きていた。

 

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1978年5月20日(土)・
曇り。
成田空港は、今日、厳重な警戒体制のもとで開港する。

ローマ。18歳以上の女性が、本人の意志で、妊娠3か月以内の人工中絶を受けることを認める法案が上院を通過した。賛成、160。反対、148。
キリスト教民主党ほか右派が反対したが、社会党、共産党が賛成し、4月14日、賛成、308。反対、275で、下院を通過している。ヴァチカンの反応はまだ出ていない。下院で、この法案が通過したとき、ヴァチカンは――この法案の承認は殺人にひとしい深刻な結果を生じるとして、反対を表明している。

午後1時、「千葉文学賞」の選考。
峰岸 義一、恒松 恭助、北町 一郎、荒川 法勝、山本さん。そして私。庄司 肇さんは欠席。
文学賞の審査は、おもしろいもので、こんなものでも、いろいろと心理的な駆け引きがあらわれる。
庄司さんが一位に推した花森 太郎の作品は、私も入選作と見ていたが、ほかの審査員の支持が得られずに落ちた。もし、庄司さんが出席していれば落ちなかったろう。
帰宅。

 

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1978年5月21日(日)
安東たちが山に行っているはずなので、残念。
アメリカから帰って、私はかなり変わったような気がする。もとのように、忙しい毎日をすごしているのだが、大作を手がけはじめて、ますます時間がなくなってきた。

「メディチ家」ノート。
パッツイ家の陰謀を調べているのだが、こんなに有名な事件なのに、パッツイ家の資料がない。マキャヴェッリの「フィレンツェ史」を読み返す。ケントの「フィレンツェの名家」を調べたが、パッツイ家の事件にふれていない。
こういうときは、まるで登山中にガスに巻かれて動きがとれなくなる状態に似ている。

北ノ湖、若三杉の優勝決定戦を見た。私の予想通り。
北ノ湖は、どうも好きになれない。しかし、現在の角界で、実力は最高。昨日、若三杉に負けたが、これは北ノ湖が負けてやったと思われる。
今日は、輪島を破り、優勝決定戦にのぞんで、若三杉を一蹴した。
ほんとうなら、昨日、若三杉に勝ってもいい相撲だったが、自分が負ければ、若三杉が横綱に昇進する。輪島後の相撲の人気をもりたてようという意図がありありと見える。しかも、自分の12回の優勝を果たした。
こういう北ノ湖に、私は徹底したリアリストを見る。

 

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1978年5月22日(月)
下沢 ひろみから電話。水疱瘡にかかったので、休んでいるという。驚いて安東 由利子にたしかめると、昨日の登山は中止したという。おやおや。リーダーが休むと、みんなの士気も衰えるらしい。
藤枝 静男さんが平野 謙さんを悼むエッセイを読んで、深い感動をおぼえた。

ヴェトナムから脱出した華僑系難民が5万7000人に達した。(「大公報」)トンキン湾に面する自治区・北海市では、クワンニン省各地から1000隻以上の漁船に乗った華僑が、2,3日から10数日も海上を漂流して北海市にたどり着いた難民が、今月5日現在、8000人に達している。
雲南省の河口、ヤオ族自治区でも、華僑系難民の数は、毎日1000人、多い日は1900人に達している。

中国では、一般大衆が見られない映画が、この数カ月に、ペキンの党幹部のためにひそかに上映されているという。政府高官、人民解放軍幹部、その家族たちは、文化省によって用意された外国映画を鑑賞している。こうした映画は、「浮気なカロリーヌ」、「スター・ウォーズ」など。高級幹部は、「ある愛の詩」(「ラブストーリー」)といったベストセラーも読む。中国語訳が、内部参考用として少部数出版されているといわれている。

 

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1978年5月23日(火)
成田空港では、今日からすべての国際便が離着陸をはじめる。機動隊1万人が警備に当たっている。過激派は、地下ケーブルを切断したり、送電用鉄塔を倒すといった無差別テロに移った。

正午過ぎ、「伊勢丹」。「美の巨匠展」を見る。私がパンフレットに原稿を書いたので、受付で、安斉 はる子さんの名をいえば、パンフレットを用意してくれるはずだったが、今日が最終日なので、受付につたえていなかったらしい。

3時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見」の長谷川君に会う。一緒に「東和」で、「ホワイト・バッファロー」(J・リー・トンプソン監督)を見た。
「ワイルド・ビル・ヒコック」(チャールズ・ブロンソン)は、白い巨大な野牛を追っていたが、同じ獲物をねらうインディアンの長「クレイジー・ホース」(ウィル・サンプスン)と出会う。ふたりは協力して、この野牛と闘う。
みながら、この映画はイケないと思う。「コンボイ」(サム・ペキンパー監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)とそろったところに、チャールズ・ブロンソンでは、とても対抗できない。
キム・ノヴァクが出ているが、見るかげもない。

Y.Kとデート。

 

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1978年5月24日(水)
「週刊ポスト」、富田君、明日、インタヴュー。
「翻訳協会」、原稿依頼。
「毎日」、インタヴュー。西村 寿行のこと。

気晴らしにカメのエサを買いに行く。
たまたま、イモリを見つけた。形はグロテスクだが、可愛い。飼ってみようと思った。

 

 

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1978年5月25日(木)
いつものように、草花、木に水をやろうとおもって、池をみると、10尾いたはずのイモリが2尾しかいない!
あわてて探したところ、池のまわりの植え込みの根のあたりにひそんでいた。すぐにつかまえて池に戻した。
思ったより頭のいいやつらだった。逃げられても惜しい気はしない。ただ、庭のどこかにいてくれればいい。

マーガレット王女、スノードン卿と正式に離婚。
 

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1978年5月26日(金)
昨日も快晴。今日は夏に近い。

「メディチ家」1章、ノート。
これで書きはじめるつもり。しかし、ジャーナリズムとは無縁の仕事なので、不安な出発になる。一応、「集英社」の松島 義一君に話をもちかけたが、100枚の原稿と聞いてひるんだらしい。小説なら100枚でも掲載するのだが、私の仕事は「文学」ではないと見ているらしい。

3時、「東和」第二。「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」の試写。これはすばらしい。全編、アフリカの象牙海岸で撮影したもので、みごとな映像美だった。内容は、コメディ・タッチの反戦映画。もっとも、こういっただけでは、この映画のすばらしさはまったく伝わらない。
先日、「東和」で、「ホワイト・バッファロー」を見て失望しただけに、この映画なら、他社の大作のなかでも輝きを失わない……かも。あとで、考えることにしよう。

神保町に出て、本を漁る。「北沢」で2冊。ある枢機卿の記録。1509~1514年。つまり、ジューリオ2世からレオ10世の時代。たちまち貧乏になった。大学の教授で、必要な本を全部大学の図書館に買わせて、本は自分の研究室に運ばせているやつがいるが、私の場合、必要な本は全部自分で集めなければならないので、いつもピイピイしている。
もの書きで、私ほど貧乏な作家はいないだろう。

「世界文化社」、井上 正博君から、今川 義元の資料を。

「あくね」に。ひさしぶりに、小川 茂久に会う。少し飲んでいるうちに、小川が意外なことをいい出した。
――きみ、専任になる気はないか。
――センニンって?
――文学部の専任。
――ああ、そっちか。専任の講師ってことか。
――いや、講師じゃないほう。
――平野 謙さんが亡くなられたので、空席ができたためか。
――そうじゃないんだ。
平野 謙さんが亡くなられた空席を埋める、といのではなく、教授会で、私の名が出てきている、という。その前に、私が引き受けるかどうか、私の意向をたしかめておきたい、という。
――そんなに、もったいぶった話じゃねえだろ。お前さんがいうなら、なんでも引き
受けてやるさ。
――たいへんだよ、実際に教授になったら。
――(教室に出る)時間は多いのか。
――5コマだよ。
――つまり、毎日、出講ということになるね。
私は、大学に勤務することになったら、小さいコラムをいくつか整理すればいい、と思った。5コマのうち、1コマは、自分がやりたいテーマ、たとえばプランタジネットの「モード」について1年かけて、講義したいと思った。「モード」の母は、スコットランド王の娘で、イングランドのサクソンの後裔。こういう血が、中世の女を作った。「モード」は「マティルダ女王」。母も「マティルダ」。
――だけど、ほかにいろいろと時間をとられるよ。教授会にも出ないかんし」
教授会か。ポストをめぐっての争いや、中傷、了見の狭い連中が偉そうな顔をしてのさばっているだろう。退屈な風景だな、と思った。
オレみたいな男に、つとまるかどうか。
――平野 謙さんが亡くなって空席を埋める話とは無関係として、要するに、文学部
が弱体化するから、新しく立て直すということなのか。
――まあ、そういうことだね。
小川がいった。
先日、私の起用の当否をめぐって、「弓月」で唐木 順三が、大木 直太郎先生をはげしく問詰したとき、偶然だが、小川が私といっしょにあのやりとりを聞いていた。小川は、最後まで何もいわなかったが、私が屈辱にまみれていたことを見届けていたはずだった。その後も、私と小川のあいだで、あのときのことはいっさい話題に出なかったが、小川は私に同情したに違いない。
私は、もう一つ、小川に訊いてみた。
――話はわかったが、もう1人の平野(仁啓)さんはどうなんだ? あの人は、オレの起用に反対だろう。
平野 仁啓さんは、斉藤 正直先生と同期で、戦時中は、「批評」の同人だった。文壇批評家を志望していたが、戦後は、日本文学の研究者として、文学部の先生になっている。私は、大学で会うこともなかったが、唐木 順三と親しい仁啓さんが、私の起用をこころよく思っていないだろうことは想像がついた。
小川は、私が仁啓さんの名をあげたので、少し口をへの字にまげて、
――まあね。
そして、ケッケッケッと笑った。

こういう話は、もっと具体的になってから考えたほうがいい。これまでにも、似たような話が浮かびあがっては消えていったことは何度もある。私は、何度も失望したものだった。私は、あきらめのいい男になっている。この話も、たまたま酒の座興として聞いておこう。

帰宅。
作家、野呂 邦暢さんから礼状。私の批評に対して。拙作、「私小説」(「宝島」)を読んだという。

 

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1978年5月27日(土)
ほぼ快晴。
スズキ シン一さんに電話。夫人が出たので、先日送っていただいた博多人形の礼をいう。

 

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1978年5月28日(日)
快晴。4時半に起きる。
6時半、新宿に。
8時10分前、新宿駅。誰もあらわれない。ひとりで、甲府に行く気になった。そこに、石井 秀明、続いて吉沢 正英。8時16分発の急行に乗ったとき、安東夫妻、工藤敦子。
先日、安東 つとむがリーダーで、悪戦苦闘したあげく、ビヴァークした山を今日は突破しようということになった。みんなは、失敗した山をもう1度やるのは、おもしろくなさそうだったが、私はぜひ登ってみたかった。
10時15分、奥多摩から始発のバスで、10時半、倉戸口に。10時36分、出発。
10時49分、神社に着いて水の補給。暑いので、みんなの調子がよくない。私もひさしぶりの登山なので、疲労を心配していた。
11時、やはり、調子がわるい。
工藤 敦子、不調。安東 つとむも。11時半、小休止。こんな調子では心もとないが、やむを得ない。
11時45分、また歩きだす。このときから、いつものペースをとり戻した。12時25分、倉戸山。昼食、オートミール、ビスケット、ミルク。あまり食欲がない。
1時45分、出発。2時「中田小屋」跡。しばらくぶりで行ってみたが、跡形もなかった。この小屋跡の前の道から左に入ることにした。むろん、地図上に破線もない。小石、岩のザレ場をまっしぐらに下りてゆく。
安東 つとむが、どうも前にきた道と違う、という。しかし、もとの道に戻るのもシャクなので、そのまま進んだ。
谷が迫ってきて、通れない。ここで高巻き。やっと尾根にとりついた。しばらくして、また断崖。その上の、比較的、安定した場所を通り、三つばかり、尾根を越えた。
途中で、旧道らしいものを発見したので、それを辿ってゆく。
滝のある沢に出た。
4時、ここで小休止。
このあたりなら、安東パーティーが、ビバークしたのも無理はない。むずかしいコースだった。安東は、明日はどうしても休むわけにはいかない。吉沢君にしても、工藤 敦子にしてもおなじだろう。早くルートを発見しなければならない。
吉沢君、石井君、安東君にルート・ファインディングを頼む。それぞれ別の方角に、10~15分進んで、ルートの「発見」とは関係なく引き返してくる。
吉沢君が、ルートを「発見」して戻ってきた。吉沢君の報告から、そのルートは石井君の「発見」したルートとぶつかると判断できた。みんなで、安東君を呼び戻す。
安東君は、この前、ビバークした地点を発見したという。

時間がない。私たちは、吉沢君のルートをたどった。
カヤの木がつづく。この道をたどって、5時45分、麓の部落に着く。
みんな、ほっとした顔になった。
5時54分のバス。1日、4本。これが最終だった。
みんなが、私の判断をよろこんでいた。

奥多摩に戻ったのは、6時40分。

6時21分、奥多摩から立川行きに乗る。

疲労はなかった。久しぶりに、おもしろい山行をしたという充実感があった。
帰宅、10時45分。
百合子に、山の話をする。
きっと、昂揚していたにちがいない。

 

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1978年5月29日(月)
「メディチ家」を書きつづける。

杉崎女史から手紙。アメリカ行きが迫っている。
剣持さんから、電話。原稿の依頼。「週刊サンケイ」、長岡さん、電話。「社会思想社」、督促。
Y.K.が原稿を送ってきた。小説のごときもの。

 

 

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1978年5月30日(火)
小雨。
「社会思想社」、小栗 虫太郎、解説、10枚。
「山ノ上」で、「二見」の長谷川君に、サローヤン。
「社会思想社」、浦田さんに、原稿をわたす。

安東 由利子と「山ノ上」で会って、倉戸の話をしながら、「日経」の原稿を書く。まだ書き終えないうちに、吉沢君がきた。私が「山ノ上」にいると見当をつけて、やってきたという。
――山のルート・ファインディングみたいに、カンがいいね。
――先生に鍛えられましたからね。
吉沢君が、ニヤニヤする。

「平和亭」で、Y.K.に小説の話をしているところに、小川がきた。Y.K.は、私と話をしたいらしく、帰らない。やっと、帰ったので、小川と飲む。小川は、Y.K.を私のあたらしい「恋人」と見たらしい。

 

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1978年5月31日(水)
晴。
朝、いつものように、バークリーの植物に水をやり、さかなにエサをやる。
百合子がきた。

午後、表のツタの葉をきっていると、若い人が寄ってきて
――つきますか?
と訊く。ツタを植えたので、根がつくか、という意味だった。
――たぶん、つくでしょう。
と、答えた。ひどく、なれなれしい人だが、近くに住んでいる板倉さんだった。
――このつぎ、本を持ってきますから、サインしていただけますか。
という。
板倉さんは、私のデザインした門扉を眺める。たいていの人は、このデザインを見て驚く。なにしろ、女のヌードなので。門扉は、どこでも見かける普通のものだが、これに横座りの女の大きなヌードが付けてある。
普通の門扉では、玄関まで見えてしまうのだが、門の外側が大胆なヌード。大きな鉄板にデッサンを描いて、それを切ったもの。色は黒。片方の乳房が、ドアノブに重なっているので、それに気がつくと誰も玄関を見ない。
近くの女子校の生徒たちは、はじめてこの扉に気がつくと、キャアキャアいいながら、足をとめたり、笑いだしたりする。
しばらくすると、誰もさわがなくなる。
板倉さんは、私のデザインした門扉を褒めてくれた。

昨日、送ってきたアーサー・ヘイリーの「ルーツ」を読み始める。
大畑 靖君から礼状。山本 由鷹君が批評を寄せてくれたという。
杉崎女史に電話。アメリカ行きは、8月末になったという。