1812〈1977~78年日記 59〉

1978年3月1日(水)
12時、バークリーからシスコに。

パウェルに出て、「オクスフォード・ホテル」に泊まることにした。
901号室。

昼間なのに、薄暗いホテルの廊下。人影はなかった。まるで、スリラー映画そっくり。

ホテル暮らしもわるくない。それだけアメリカの生活にもなれてきたということか。

シャワーを浴びて、ビアー。テレビを見る。

アカデミー賞のノミネーション。
優秀作品賞。
「アニー・ホール」(ウディ・アレン監督)、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)

アメリカにきて、テレビでアカデミー賞のノミネーションの発表を見て、東京で見た映画をいろいろと思い出す。なんとなく不思議な気分になる。
オレが映画評を書いた作品が、アカデミー賞にノミネートされているなあ。それだけで、今回のアカデミー賞が、なんとなく身近なものに感じられる。
北アルプスを歩きながら、前に登ったときは、ここでメシにしたっけ、とか、ふと、人の気配を感じて、あたりを見まわすと、若いカップルがコースをそれて、高山植物のなかで抱きあってキスしていたり。
そんなとき、チェッ、うまくやってやがる、と舌打ちする思いと、そういえば、このコースは、Y.K.といっしょに登ったっけ、と思うと、なつかしさがひろがってくる。アカデミー賞のノミネートは、そんな思いに似ていた。

監督賞。
ウディ・アレン、スティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、フレッド・ジンネマン、ジョージ・ルーカス、ハーバート・ロス、「愛と喝采の日々」。

主演女優賞
「愛と喝采の日々」のアン・バンクロフト。シャーリー・マクレーン。
「ジュリア」のジェーン・フォンダ。
「アニー・ホール」のダイアン・キートン。
「グッバイ・ガール」のマーシャ・メースン。

 助演女優賞。
「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウニー。
「グッバイ・ガール」のクィン・カミングス。
「未知との遭遇」のメリンダ・ディロン。
「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴ。
「ミスター・グッバーを探して」のチューズデイ・ウェルド。

ノミネートされた映画はほとんど全部見ている。(外国語映画・部門の、イスラエル映画、フランス映画、ギリシャ映画は見ていない)。「未知との遭遇」が最優秀作品にノミネートされなかったのは意外だが、他の映画も「スター・ウォーズ」に並んだのが不運だった。
「グッバイ・ガール」は、ニール・サイモンが、夫人、マーシャ・メースンのために書いたコメディ。いい映画だが、ほかの作品に較べると小ぶりで、アカデミー賞は無理だろう。「愛と喝采の日々」よりは、「ジュリア」のほうがいい。「ハメット」をやったジェースン・ロバーズがいい。「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴが、すばらしかった。
単発としては、「アニー・ホール」がダークホースかも。
どの映画が最優秀作品に選ばれるのか、女優の誰が主演女優賞をとるのか。ヴァネッサ・レッドグレーヴが、「ジュリア」をやって、最後に私たちにいたましい思いをもたらす。女優としてどれほどの苦労や精進があったのか。父が名優で、スタニスラフスキーの影響を受けたからといって、ヴァネッサの芸が出てくるわけではない。
おなじように、「リリアン」を演じて映画にサスペンスフルな緊張をみなぎらせたジェーン・フォンダが、ヴァネッサとおなじシーンで、なぜかひるんだり、どう演じてもヴァネッサに押されていたのはなぜなのか。

「アニー・ホール」のダイアン・キートンにしても、たしかに独特の「女」を見せていた。自分でも会心の演技を見せつけている、と思ったに違いない。しかし、自分でも最高のインスピレーションを実現したと思ったとき、それこそがウディ・アレンの「演出」だったのではないか。ウディ・アレンでなければ、あの「アニー・ホール」は存在しないだろう。とすれば、名演技とは何なのか。

「アルバトロス」に行って、本をあさった。
この前は思いがけない「発見」があった。
映画のパンフレットに、「異聞猿飛佐助」の上映が出ていた。今週は、なんと「侍ニッポン」(岡本 喜八監督)と、「座頭市」(三隅 研次監督)をやっている。
アメリカで、「座頭市」をやっているのか。驚いたなあ。
日本映画に対する関心がひろがっている。これは喜んでいいが、どういう評価をされているのか。

 

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1978年3月2日(木)
少し、冷静になってからも、アメリカで「異聞猿飛佐助」を見そこなったことが残念だった。もっと早くアメリカにきていれば、見られたかも知れない。
今日も、私にとっては思いがけない「発見」があった。

コトルバスの公演がある!

この記事を見た瞬間、チケットを買うためにホテルを飛び出した。

14丁目、ハリスン、「ホームズ」で、サンフランシスコ・オペラハウスのアドレスを聞いた。
いろいろな思いが、私の内面につぎつぎによぎって行く。

坂道を歩きつづけた。似たようなビルや家屋がつづいて、やがて海に向かって眺望がひろがり、サンフランシスコの大きな空の下に、淡いグリーン、ブルー、ときどきピンク、さまざまな屋根の家並みが、どこまでも続いているように見えた。

私は、知らない通りを早足で歩いた。人の流れにさからって歩いている。自分の内面に吹きあがってくるものにうながされて歩いている。
そして、オペラハウスの前に立った。

私は、コトルバスのチケットをにぎりしめていた。

もし、東京にいたら、まずどこに行くだろうか。つまらないことを考えるものだ。このときの私は、「日経」や「サンケイ」のデスクを思い出した。

私は、コトルバスのファンなのだ。ルーマニア出身。
マリア・カラス、レナータ・テバルディほどの歌手ではないが、レナータ・スコット、カーティア・リッチャレッリなどに比肩する存在なのである。いや、それ以上の実力をもっているシンガーなのだ。
ニューヨークに行って、ミュージカルやオペラを見るつもりだったが、シスコに、コトルバスがきているというのは、何という僥倖だろう。

とにかく、一度、バークリーにもどって、着替えよう。まさか、革ジャンを着て、オペラを聞きに行くわけにいかない。

 

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1978年3月3日(金)
コトルバスの印象は、ひどく小柄だったこと。
あの小柄な女性が、まさに「マルグリート」として、私の前に登場したのだった。

東京にいたら、会う人会う人みんなに、コトルバスの舞台のすばらしさを吹聴するだろう。コトルバスの「ラ・トラヴィアータ」を見たことは、生涯の喜びになった。
「ヴィオレッタ」のサロンで、「楽しい杯でワインを味わおう」を歌いだした瞬間から私は、コトルバスに魅了された。驚くほど小柄で、華奢なドゥミ・モンデーヌだった。

「アルフレード」や、「ジョルジュ」、「ドウフォール男爵」、みんな、どうでもよかった。
東京にいたら、すぐにエッセイを書いて発表するところだが、今は何も書かない。書く必要がない。
東京にいたら、すぐに「サンケイ」の服部君か、四方さんに、エッセイを書くから、スペースをあけておいて、と連絡するところだが。

「サンケイ」や「日経」の文化部。それほど人数は多くないが、記者たちの出入りが忙しくなって、電話で原稿の口述を受けたり、短いコメントをとったり、ときには何かのニュースが入って騒然としたり、あわただしく飛び出して行く。そんな中で、私は原稿を書く。
これがアカデミー賞のノミネーションか何かのイヴェントだったら、吉沢君か青柳君が、私の予想を聞きにくるだろう。しかし、コトルバスの公演を知らせても、誰も関心を寄せないだろうな。

 

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1978年3月4日(土)
「オクスフォード」、チェックアウト。

グレイハウンドに乗る。

ただ、広大な平原がつづく。平原には違いないが、むしろ荒涼としている。
バスは、ひたすら長い道路を走りつづける。バスの左右にひろがる灰色の荒野。やがて、その中を、ひとすじの川が、水面(みのも)をにぶく光らせながら流れている。地図がないので、名前もわからないが、日本なら1級河川と認定されるほどの川だった。しかし、流れていると思うのは、それが川だと思うからで、旅行者の目には実際に流れているのが見えるわけではなかった。
このあたりに、明治初年の日本人移民が住みついたのではないだろうか。ただの荒れた平野がつづくばかりで、バスとの距離がより遠くなると、ただ灰色の不透明な風景になって離れて行く。
アメリカの広大さを、いまさらながら思い知らされた。

はるかな地平に向かって、空と雲と。
アメリカは広い。そんなことはわかりきっているが、百年も昔、こんな場所に移住してきた日本人は、どういう思いでこの荒野をさすらっていたのか。

「オールド・サクラメント」。着いてみて、荒れ果てた都会の寂しさに気がついた。
バスを下りて、まず、ホテルをさがした。
ホテルはバス停に近い「シャント・クレール」。名前が気に入って、ここにきめた。
ただし、このホテルは、まったくの安宿だった。

街を歩いても、何もない。

こういう町に、日本人移民が住みついて、わずかな田畑を耕したり、零細な商店を経営して、少しづつ土地に馴染んでいったのだろう。私の遠縁の中田 直吉は、この地で暴漢に襲われて、殺されたという。どういう思いで、当時、僻鄒(へきすう)のサクラメントにたどり着いたのか。

かつてはさぞや立派だったと思われる映画館があった。
上映していたのは、「いくたびか美しく燃え」(ガイ・グリホン監督)。ジャクリーヌ・スーザンのベスト・セラー。
映画プロデューサー、「マイク」(カーク・ダグラス)は、裕福な女性、「ディー」(アレクシス・スミス)と結婚している。娘の「ジャニュアリー」(デボラ・ラフィン)は作家の「トム」と愛しあっている。だが、「ディー」は、女優の「カルラ」(メリナ・メルクーリ)と、レズ関係。従弟(ジョージ・ハミルトン)に、「ジャニュアリー」を誘惑させ、夫の目をくらまそうとする。
コトルバスを見たあとなので、この映画の印象は薄いものになった。映画に舞台の迫力を求めるほうがおかしいけれど。

 

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1978年3月5日(日)
バークリーに戻った。

エリカが、はげしい剣幕で
――どこに行ってた?
と、私に詰問する。

私が連絡しなかったので、バークリー警察に行って相談したという。エリカは、シスコで一人歩きをするなんて危険きわまる。強盗にぶつかって殺される旅行者だってめずらしくない。
刑事は、私の氏名、職業を聞いて、英語は話せるのか、と聞いたらしい。エリカは、大学の教授で、英語はしゃべれる、と答えた。
刑事は、にやにやして、あまり心配しないほうがいい、といったそうな。

私は、いちおう旅なれているつもりだが、危険な場所には立ち寄らない。
エリカは――たとえ、10ドル、20ドルしか持っていなくても、その10ドル、20ドルほしさに人殺しをするような連中がいる、という。それはその通りなので、こちらも反論できない。

けっきょく、エリカがあとでバークリー警察に行って、捜索願いを撤回することになった。

午後になってエリカも、やっと機嫌を直した。午後から、バークリーで親しくなった友だちの「エイコ」さんのところに遊びに行くという。

テレグラフに出て、百合子のためにお土産を探した。腕輪を見つけた。気に入ったが、こんなものは日本ではアクセサリーとして使えない。そこで、指輪を買った。
百合子には何もプレゼントしたことがない。なにしろ、結婚したとき、500円しかなかった貧乏作家で、原稿料を稼ぐためにあくせくしていた。指輪を買う余裕もなかった。
その私が、アメリカにきて本を買いあさっているのだから、変われば変わるものだと思う。百合子に手紙を出しておこう。私の捜索願いのてんまつも。

ハガキを書く。

テレビ。「アウトフィット」。ロバート・デュヴァル、カレン・ブラック。テレビ・ドラマではなく、テレビ映画。(日本のVシネマだろう)
またまた無知をさらけ出すようだが、アメリカにきてはじめて気がついた。日本では公開されないアメリカ映画が無数にある。(日本語のスーパーインポーズがついて)試写の結果、公開されない映画もあるが、そうではなくて――はじめから日本には未輸入のままアメリカだけで公開される映画が山ほどある。
この「アウトフィット」もそのひとつ。カレン・ブラックがいい。

テレビ映画は、英語のブラッシ・アップのつもりで見ている。