1811〈1977~78年日記 58〉

 

1978年2月22日(月)
いよいよ出発の日。
原稿はほとんど書き終えたので、気分的に落ちついていられる。
昼、「シュメイカー・コレクション」のカタログの原稿を書く。主に、フランドル派の画家を中心に、アンドレア・デル・サルト、グィド・レニなど。1月に、「テレ朝」で、フランドル派の画家について話をしたが、それが役に立った。
小川 茂久に原稿を。坂本 一亀にわたす原稿。これで、やっと肩の荷がおりた。
仕度をする。百合子がついていてくれた。家を出て、池田家のあたりまで百合子が見送ってくれた。しばしの別れ。
5時、「山ノ上」。
「共同通信」、戸部さんに原稿。
もう1人、安斉さんに、フランドル派の原稿をわたした。しばらく雑談。このつぎは、「ルネサンス展」を企画したいという。
駿河台下からタクシー。

カウンターで、ボーディングの手続き。41A。

時間があるので、「大和」でお寿司を食べた。ほかの店が混んでいたので、「大和」を選んだわけではない。

税関を通ったのが、9時15分。
免税店で、「ハイライト」、1カートン。本を1冊。

予定より10分遅れ。10時40分、離陸。

機内食。

映画、「ディック・アンド・ジェーン」を見た。ジェーン・フォンダ主演。
どうも見たような映画だった。ああ、試写で見たっけ。英語だけで見たかった。
映画を見はじめて気がついたのだが、私の席の2列前にスチュワーデスの席があって、映画のスクリーンがよく見られない。なるほど、安い席には安くする理由があるのか。
仕方がない。眠ることにしよう。

 

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1978年2月22日(月)
朝、5時。
アナウンスメントがあって、あと2時間で、サン・フランシスコに着く。
よく眠れなかったせいか、少し疲れていた。時差のため、アメリカ時間で正午。
雲海を飛んでいる。ときどき強く揺れる。
食事が出た。タン、ヌードル、スープ。あまり食欲がない。

2時18分、サン・フランシスコ、着。

税関はかんたんに通してくれた。

まわりにいるのは白人ばかり。
ああ、アメリカだなあ。
つまらないことを考える。バスで、ダウンタウン・バス・ターミナルまで。
1ドル40セント。

積木のように、淡いブルーやグリーンの家並みがスロープにびっしり並んでいるのもなつかしい風景だった。

「ベルヴュー・ホテル」は、ゲァリー/ティラーにあるので、ターミナルから歩いて行ける。中級ホテルのくせに、お高くとまっているような感じ。ただし、落ちついた雰囲気はある。
715号室。老人のボーイにチップをやり、入浴。
ベッドにひっくり返った。

5時半、ドアをノックして、エリカがはいってきた。
久しぶりに親子の対面だが、お互いに、ハグするわけでもないし、握手するわけでもない。しばらく、千葉の百合子、賀江たちの話をする。

――とにかく、外に出よう。

サン・フランシスコ名物の市電に乗る。急な坂道をガタガタ走っているボギー車だった。白人、黒人、アジア系、アフリカ系、雑多な人種、みな乗り込みで、けっこう混んでいたが、吹きっさらしの風が冷たい。

ノブ・ヒルからすぐのパウエル・ストリートと、マーケット・ストリートがぶつかるあたりがシスコの中心で、銀行、デパート、華やかなブティックなどが密集している。この広場の下に、バート(湾岸高速鉄道)のパウエル駅があるので、観光客も多い。
サン・フランシスコ名物のケーブルカーの発着地点になっている。
坂を下りてきたケーブルカーは、ここで方向転換するのだが、ものめずらしさに惹かれた観光客が集まって、まるでお祭りさわぎのようになる。

ワシントン・ストリートを右折して、ハイドに入ると、ケーブルカーは、上り坂、下り坂のストリートを走るようになり、プリバートとクロスしたあたりで、突然、海が見えてくる。

ランバートの角で眺望がひらける。
春の遅いシスコの湾内の、海の色はまだ冷たい冬の色をたたえていた。
遠くアルカトラスが見える。訪れる者もいない刑務所の島。
すべてがカリフォーニアの沈黙のなかにあった。太陽の光だけが春らしいきらめきを届けてくる。
ベイ・フリッジも美しいカーヴを見せていた。

この季節のフィッシャーマンズ・ワーフは、落ちついているようだった。エリカは、観光客などがあまり知らない、裏通りをいろいろと知っていた。
あまり裕福な人たちのいないさびれたホテルの区域や、それと道一つへだてたチャイナタウンの入口や、もっとずっと奥の中華料理の店なども知っていた。
語学を習得するために通っているスクールに、中東、東南アジア、南米からきた若者がいて、いろいろな場所に住んでいる。むろん、日本人もいて、エリカは世界じゅうの若者たちと友達になっている。
とりあえず、「フィッシャーマンズ・ワーフ」で食事ということになった。

「フィッシャーマンズ・グロットー」に入った。
ここも有名な店らしく、客が混んでいたが、禿げ頭のボーイが席を見つけてくれた。
チャウダー。これが、おいしかった。井戸で水を酌む手桶に似たバケットいっぱいアサリをつめ込んである。カリフォーニア・ワイン。
日本人なので、アサリはよく食べているのだが、とても食べきれない量だった。
ふたりで食べて、30ドル。たいして贅沢でもないし、まずしい食事でもない。ボーイにチップ、3ドル。
「ワーフ」から少し歩いた。途中で新聞を買う。
チェスナットの「ACT 21」で、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)をやっている。
せっかく、アメリカにきたのだから、記念にこの映画を見てもいい。
タクシーで、チェスナットに行く。2ドル10セント。
チェスナットの通りを歩いたり、「パンケーキ・ハウス」で、コーヒーを飲んで、時間をつぶす。

「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)。
遠くはるかな銀河の彼方。帝国の独裁の軛(くびき)をやぶろうとする「レイア姫」(キャリー・フイッシャー)は、帝国の攻撃衛星、デス・スターの機密データを入手するが、帝国軍に逮捕され、「ダース・ベーダー」に拷問される。姫の命令をうけたロボット、R2D2とC~3POが逃走する。
一方、「ルース・スカイウォカー」(マーク・ハミル)は、かつて銀河共和国の騎士だったオビ・ワン・ケノービ(アレック・ギネス)に会いに行く。「スカイウォカー」は、ロボットたちといっしょに、密輸船の「ハン・ソロ船長」(ハリソン・フォード)の密輸船に乗り込み、「レイア姫」を救出する。反乱軍は、「ダース・ベーダー」攻撃に向かう。
最後に、難攻不落のデス・スター攻撃。最後の、ミサイル・ロケットと戦うシーンは迫力があった。観客が、キャーキャーいってよろこんでいる。
「スカイウォカー」のワン・ポイント攻撃が成功する瞬間は、劇場じゅうが息をのんだ。

ジョン・ウイリアムズの音楽がスゴい。
私がこの作曲家の音楽を知ったのは、「億万長者と結婚する法」だった。マリリン・モンローを「研究」していたからだが、そのときからこの作曲家に注目したなどということは、まったくない。しかし、「ジェーン・エア」や「ポセイドン・アドベンチャー」なども作曲しているのだから、才能のある作曲家なのだろう、程度。
その後、「ジョーズ」もこの作曲家と知って、はじめて、ジョン・ウイリアムズに、関心をもった。
その後、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、「ジョーズ」で、アカデミー賞を受けた。

私は、別のことに注意した。「スター・ウォーズ」併映のカートゥーン(短編マンガ)だった。(タイトルはおぼえていない。)
宇宙のどこかに、小さなジャガイモみたいな星がある。その星にロケットが飛来して、着地する。降りてきたのは、宇宙服をきたメガネの小男。
つづいて、少し遅れてもう1台のロケットがやってきて、日本人のロケットとモメる。これが、アメリカのロケット。何かしようとする度に、日本人のロケットに先を越される。日本人は、この星の領有権を主張するために、ブリキのような旗を建てる。これが日章旗。
最後に、アメリカ人が頭にきて、日本人をロケットごとその星から蹴おとしてしまう。めでたしめでたし。子どもたちが、キャーキャーいって拍手する。

このマンガは、日本人に対する侮辱を描いている。
アメリカの子どもたちが、こうした侮日的なマンガを見せられていることを知って、不快な気がした。この週だけ「スター・ウォーズ」と併映されるのではないだろう。全米で、「スター・ウォーズ」と併映されているかも知れない。
アメリカ人の内面に、日本に対する警戒がひそんでいるということは、私たちも考えておく必要があるだろう。

外に出たときは、もうすっかり夜になっていた。
22番街行きのバスに乗って、乗換え、テイラー・ストリートに戻った。
「ベルヴュー」のバーで、水割り。3ドル。
エリカに、泊まって行くか、ときいた。
うん、泊まってもいい、というので、部屋に戻った。エクレアを食べながら、また千葉のこと、百合子のこと、「小泉のおばチャマ」のことなど。
映画を見たせいか、疲れた。

 

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1978年2月23日(火)
朝、7時に眼がさめた。
熟睡。気分は爽快だった。
エリカと話しているうちに、このホテルを引き払って、バークリーに移ったほうがいい、という。
エリカの部屋に泊めてもらえば、ホテルの費用はかからない。ただし、エリカといっしょにいれば、一度や二度は衝突して口論になる、と覚悟しておいたほうがいい。
いろいろ話をした結果、バークリーに移ることにした。
そうときまれば早いほうがいい。
「ベルヴュー」、チェックアウト。40ドル85セント。

「オクスフォード」の1階のレストランで朝食にしたかったが、あいにく、11時から営業なので、向かい側のイタリアン・レストランで、朝食。3ドル85セント。
「オクスフォード」の2軒先、「ドルトン・ホテル」の隣りの本屋、「マクドナルド」に寄る。この前、ここにきたときは、フランシスコ・ボルジァの資料などを買った。今回は、ローラ・モンテスの資料。あまり、めぼしいものはない。「アルバトロス」にも寄りたかったが、荷物があるのであきらめる。

コンコード行きの地下鉄(バート)に乗る。途中、マッカーサーで乗り換え。何もかも、この前の旅行とおなじなので、なつかしさ、落ちついた感じだった。
それでも、この前はシャタック通りしか知らなかったが、今回のバークリーは、落ちついた大学の街という印象を受けた。UCB(カリフォーニア大学・バークリー分校)は、地下鉄の駅からしばらく歩く。ベンヴェヌートの通りに出る。エリカはこの通りに住んでいる。
2階。外からガレージに入るので、実際には3階といった感じ。エレベーターはある。部屋は2LDK。細長いキッチン、トイレット、バスルーム。エリカのような留学生には手頃な物件だろう。
エリカは、私がアメリカにくるので、室内を整理したという。壁に、浮世絵や、大きな虹の切り抜き、ボーイ・フレンドの「ケヴィン」が撮った天文台の写真などが貼ってある。エリカの描いた水彩も。
エリカとふたりで過ごしたことはない。エリカが、アメリカで元気にすごしていることがうれしかった。

午後、ひとりでバークリーを歩く。(あとで、これが日課になった。)

バークリーは美しい街で、ほとんどの街路に、さまざまな樹々、花々が植えられている。朴、木蓮、名前がわからないのだが、センリョウ、マンリョウに似た実をつけている木々、アメリカスギ、たくさんの植物が、この街に落ちついた雰囲気をもたらしている
「ヒルガス」地区で、サクラに見紛う花(おそらく、アンズかアマンド)が、咲きみだれていた。それが今、風に散っている。

私は、雑草のなかを横切り、わずかな灌木をわけて、展望台とおぼしき場所まで歩いた。灌木のあいだから、このあたりの、小高い丘陵からのゆるやかな起伏が見渡せる。
ベンヴェヌートの通りが、ひっそりと息づいている。
雲の切れ目から、陽射しがバークリーのアップタウンに照りつけて、大学の建物が金色に光った。あんなに小さな建物のなかに、ノーベル賞の学者たちがひしめいていると思うと、何か非現実めいたことに思えた。

エリカの話。土曜日は、テレグラフの通りで、若い人たちの手作りの露店が並ぶという。それを見に行った。その露店の一つ、革バンドを売っている。バックルの一つが、スコルピオだったので、革バンドにつけてもらって買った。
サッター通り、UCBの構内から出て、すぐのストリート。大学の教科書、参考書を売っている本屋で、スタンフォード大・教授、ヘンリー・アンスガー・ケリー著、ヘンリー8世の離婚を扱った資料。近くの書店、「コデイー」で、カリフォーニア大、J・J・セドリスブルック著、「ヘンリー8世」。そのあと、「シェイクスピア」で、メキシコ征服に関する資料など。
今回、私としては、ニューヨークで、芝居とミュージカルを見るつもりだったが、エリカが泊めてくれるのなら、バークリーで、いろいろと資料を買うことにしてもいいと思った。
エリカのアパートに帰って、すぐに本の荷作り。みんな、船便で送ることにする。
時差ボケで、昼過ぎになると眠くなる。

夕方、シスコに出るつもりでアパートを出たが、ドワイト・ウエイで下りたところに古書店があるので、寄ってみた。なんのことはない。昼間、立ち寄った「シェイクスピア」だった。たいして期待しなかったのだが、ヒレア・ベロックの評伝、「ウルジー」を見つけた。

また別の古書展を見つけたので、寄ってみた。ここでは、クレメンテ・フュゼロの「ボルジア家」を見つけた。そればかりか、グレゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」も見つけた。29ドル。

 

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2018年2月26日(日)晴、曇り
朝、眼がさめたのが5時。まだ、からだがなれないせいか、こんな時間に眼がさめてしまう。エリカは隣りの部屋で眠っている。
エリカを起こしたくないので、昨日、買ったグレゴロヴィウスを読む。途中で眠ってしまった。起きたのは11時半。

エリカが、フリー・マーケットにつれて行くというので、ジーンズに着替えてバスに乗った。オークランドから、トンネルを越して、アラメダのドライヴイン・シアター。ここで、いろいろな人ががらくたを並べて売っている。日本の骨董市のようなもの。
帰りに、オークランドで、「ウィンザー・カナディアン」というウイスキーを買った。8ドル65セント。雑誌、「ハスラー」、タバコを2カートン。これで2Oドル。
バークリーは、町の条例でアルコール類の販売が禁止されている。パブのような店もないし、レストランでも酒類はいっさい出さない。だから、当地の左党は、市外で買ってくる。持ち込みは禁止されていないので。

アメリカでは、毎日が「発見」の連続だが――
UCBのパンフで、私の小説の映画、「異聞猿飛佐助」(篠田 正浩監督)をやっていることを「発見」した。え、マジかよ。驚きがあった。

「THE SAMURAI SPY」by MASAHIRO SHINODA

まさか、アメリカで「異聞猿飛佐助」を上映しているとは思わなかった。
私自身、この「異聞猿飛佐助」は、公開直前に、「松竹」の試写室で見ただけだった。「異聞猿飛佐助」を撮ったあと、篠田 正浩は「松竹」と対立して、やがて、「松竹」を離れた。その後、「異聞猿飛佐助」は、日本では二度と上映されることがなかった。

ところが、この映画は1週間前に上映されたのだった。
惜しいことをした。残念。
アメリカにきたばかりで、いきなりパンチを食ったような気がした。もっとも、私が残念がっても仕方がないが。

 

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2018年2月27日(月)晴、曇り
昨日より早く眼がさめた。

ベンヴェニュの北に、低い丘陵がつづいている。UCB(バークリー)からつづいている雑木林と、緩やかに傾斜した谷間から、細い道が大学付属の原子力研究所のほうにつづいている。その山道は、アメリカ松と、徐々に高くなってゆく山肌を見せて、行く手でおおきく弧を描いてまがり、さらに先の高原にむかっている。
規模からいえば、高尾山から御岳に向かうハンキング・コースに近い。アメリカにきてまで山登りをするのは酔狂だが、この丘陵地帯を見てから、どうしても登ってみようと思った。

太陽がまだ登っていない。東から北に伸びた丘陵に、低い雲がひしめいている。しかし、雨になりそうな雲ではなかった。
旅行中なので、登山靴ではなかったが、往復たかだか1.2時間の散歩なので、革靴でも歩けるだろうと判断した。

ゆるやかな山道。
水分を吸収した草の緑が、まぶしいほどあざやかだった。日本の雑草と違ってどこかたけだけしい感じで、昇る朝日を反射して、美しいオパール色をみせる。ポール・グリーンの芝居のタイトルを思い出した。「昇る太陽に跪づけ」。
こんなタイトルを連想するのも、何かを見て、すぐに英語を思いうかべるおかしな習慣のせいだろう。
山道も、日本の低い山のコースと違って赤い色だった。
山肌に精気がみなぎって、この丘全体が、かがやいている。
私は、バークリー背後の丘陵がつぎつぎに変貌してゆく姿に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。このまま、昇る太陽に跪づいて、カリフォーニアの大自然に溶け込んでしまいたい。
ただし、高尚なことを考えたわけではない。
おにぎりを作って、もってくればよかった。

帰りに、松ボックリをひろった。これも、日本の松ボックリと違って、三倍ほども大きい。これを日本に持ち帰ろうか。

 

 

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2018年2月28日(火)晴れ。
バークリーの郵便局。
ここの窓口は、どうかすると人の行列が外の路地にずらりと並ぶこともある。9時頃がピークらしい。
10時半になると、閑散として、局員がのんびりしゃべっている。
一個だけ航空便にするつもりだったが、うっかりして二個とも航空便にしてしまった。35ドル。
いつも2,3人、女性が受付けにいるが、黒人の女は、ひどく権高に応対する。ほかに、長髪で、いくらかスガ目の若い男。もう1人は、30代、制服をきっちり着こなして、レイバーンをかけた、ややトウの立ったプレイボーイ。
「ロゴス」で、アレッティーノ、ベネデット・クローチェを見つけた。「モー」で、バピーニ。イタリア系の学生が読んだものだろうか。

明日、またバークリーから船便で送ることになる。