1807〈1977年日記 54〉

1978年1月17日(火)
昨日、「日本ジャーナル」の原稿を書いたため、疲れている。
今日は、内山歯科に行くつもりだったが、これも中止。
3時に、試写を見るつもりだったが、これもやめた。
5時半、「山ノ上」で、大川 修司に会う。「闘牛」の「演出ノート」を作るための準備。大川は、舞台監督をやってくれたが、きわめて有能だった。
6時、菅沼がきてくれたので、「ジャーナル」の池上君に渡す原稿をあずける。
大川君と「平和亭」に行く。「徳恵大曲」を飲む。
その後、「鶴八」で、日本酒を。大川は酒豪で、いくら飲んでも酔わない。
「あくね」に寄って、先日の借りを返す。

 

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1978年1月18日(水)
雪が降った。

松波郵便局から原稿を送る。

「中世の職人たち」を読んだ。
これから読むもの。「フィレンツェの流浪者」、「NRF小説集」。

 

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1978年1月19日(木)
午後、県立中央図書館に行く。司書の渋谷(しぶたに)君に助けてもらって、松本 清張を調べた。この作家の年譜がない。仕方がない。「松本清張の世界」(「文春」)を借りた。そのまま、東京に。
「日経」。青柳 潤一君に原稿をわたした。吉沢君は不在。試写だろうと思う。
「山ノ上」で、内田君に会う。かつて、学生として私の講義を聞いた人だが、いまは、PR誌の編集者。私は、大学で講義を聞いてくれた編集者の依頼は、かならずアクセプトしている。私に原稿を頼んでくるのだから、きっと何か事情があってせっぱ詰まっているのだろうと考えるから。

「東京新聞」の「海外文化の潮流」というコラム。引用しておく。

政治に対する黙従ないしは麻痺感覚が広がるにつれて、作家のなかにもはっきりと区別できる立場が目立ってきた。一つは、倦怠と挫折のなかで酒と女に耽溺し、希望のない日常を茶化し、読者にマゾ的な享楽をあたえるポルノ的通俗小説の台頭である。P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が矢継早に登場して、苦悩を一時的に忘れさせてくれる「ベッドのうえの眠り薬」を提供していると。

もう一方の立場を代表するのは、ケニヤ文学界の大御所、グギ・オ・ジオンゴ(1938年生まれ)である、とつづく。
これを書いた人は、ロマン・ロランなどを訳している立命館大学の助教授。
失笑した。きっとまじめな方なのだろう。ご自分が間違ったことを書いていることに、まったく気がついていない。

ケニヤ文学の「現在」に「P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が矢継早に登場した」などという事実はない。そもそも、P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルは、ケニヤ人ではない。しかも、「若手作家」どころか、いずれも老練な、いまや「大家」といってもいいほどの存在なのだ。
P・チェーニイは、もう30年以上も前に登場しているし、J・H・チェイスは、「ミス・ブランディッシュの蘭」で日本でもよく知られている。
そして、グギ・オ・ジオンゴを「ケニヤ文学界の大御所」と呼ぶのも、どうかと思う。まだ、やっと40代に入ったばかりの作家なのだから。わが国の場合でいえば、菊地 寛が「文壇の大御所」と呼ばれるようになったのは、昭和に入ってからと見ていい。たとえば、「卍」を書いた谷崎 潤一郎は40代に入ったばかりで「文壇の大御所」と呼ばれたろうか。

 

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1978年1月20日(金)
「二見書房」、長谷川君、来訪。
高校生、大学生向きの「英語・学習本」の件。え、冗談だろ?
――いいえ、本気でお願いしています。
――それじゃ、池田君の企画だな、きっと。
長谷川君の話では、あくまで高校生、大学生向きだが、若いサラリーマンも関心をもつような「英語入門」を期待しているという。一応、教科書ふうな構成だが、テキストは、市販のポーノグラフィーで、訳例をつける。
――そんな教科書があったら、オレが読みたいよ。
できるだけ早く、「二見書房」に行く約束をした。

夜、「イブの総て」(ジョゼフ・L・マンキウィッツ監督/1950年)を見た。
もう、何度も見ている映画だが、今回は、マリリンをよく見ることにした。
やはり、「発見」があった。ここには書かないが。

 

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1978年1月21日(土)
今朝、私の出た「ハンス・メムリンク」を見た。百合子もいっしょに。

――そんなにわるいデキじゃなかったわ。
テレビで「ハンス・メムリンク」を見た百合子がいった。

この一年、私は混迷してきた。何か書きたい。そう思いながら、何を書いていいか、わからない。書くべきことはいちおう見えていながら、準備に手間どっている。ロココにまで、目くばりをしていた。
百合子は、そういう私を見ても何もいわなかった。ただ、私が苦しんでいたことを、誰よりも知っている。
風邪だって、今年は、私が先にひいてしまった。インフルエンザが大流行している。先週だけで、児童、生徒の患者数、13万を越えたらしい。昨年、流行したB香港型よりも、今年のA香港型は、いっきにひろがって、猛威をふるう。
そればかりか、これとは別の、新型ソ連風邪が拡大しているらしい。

夕方、百合子と一緒に「柳生一族の陰謀」を見に行く。

錦之助のセリフの拙劣なこと。驚くより、あきれた。百合子がいうには――ひと昔前の、市川 右太衛門、片岡 千恵蔵のディクションとおなじだが、時代の変化で、錦之助の場合、セリフのディクションがひどくこっけいな感じになる。
――要するに、歌舞伎役者のセリフまわしが、いまの映画にあわなくなっているって
ことかしら。
――昔の、小太夫、芝鶴、扇雀が、スクリーンでしゃべっているようなものだよ。
本人は、その滑稽さにまったく気がついていない。
――監督さんは気がついていないのかしら。
――深作は、錦之助のセリフについては何も「演出」しなかったんだろう。なにしろ
大スターだから、セリフを直すなんて、おそれ多くて、監督だってできない。は
じめからわかっているさ。だから、ワキは、新劇のベテランで固めた。みんな、
錦之助の芝居なんか、はじめから相手にしていないんだよ。
――誰か錦之助に教えてやればいいのに。
――これからも、自分のディクションのひどさに気がつかずに、ああいう芝居を続け
て行くんだろうな。どこの撮影所だって、スターさんはそんなものだよ。

 

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1978年1月23日(金)
「オブザーヴァー」の記事。

サウジアラビア王家にいる3000人の王女のひとり、「ミシャ」王女、23歳は、ベイルート留学中に、平民の青年と恋仲になった。昨年の夏、これが本国につたわり、帰国を命じられた。この若者は、サウジアラビアの駐ベイルート大使の従弟ともいう。
「ミシャ」王女は、帰国後、父親と同年代の王族の一人と結婚するように命じられた。王女は、あきらめきれず、その秋、髪を短くきって男装して、ジェッダ空港から、恋人と共に密出国しようとしたが逮捕された。
「ミシャ」の祖父、ムハマド・ビン・アブドル・アジス王子は、ハリド国王の実弟。王女は、祖父に、恋人の命だけは助けてほしいと嘆願したが、退けられた。
ハリド国王は、死刑の命令書の署名を拒否し、ふたりの最終処分は、ムハマド王子の判断にまかせた、という。
「ミシャ」王女は、家名をけがし、道ならぬ恋に走ったとして、ジッダの市場で銃殺され、恋人は首を刎ねられた。

「事実」だけを記載しておく。