1805〈1977年日記 52〉

1978年1月3日(火)
午後、めずらしく相野 毅君が年始にきた。

私は、初仕事。
5時、東京に。7時、NHKに着到(ちゃくとう)。
和泉 雅子、根本 順吉のおふたりと対談。和泉 雅子は美しい女優さんだった。占いに興味があるという。私は、しばらくルネサンスの占星術の話などをする。
和泉 雅子。若い女優にありがちな、相手の関心をたえず自分に向けさせようとするコケットリ-が見える。

鼎談の録音を終えた。スタジオの控室で自分の出番を待っている若い女優が、帰ろうとする私に目礼した。森下 愛子という若い女優だった。和泉 雅子と私の対談をずっと聞いていたらしい。

最近の「プレイボ-イ」の読者(60000人)の投票。「キュ-ト・ガ-ル・ベスト」――ドラマ女優、モデルをふくめて、人気のある女の子のベスト。

1位、木之内 みどり。2位、夏目 雅子、3位が、同数で、ピンク・レディ-、山口 百恵。以下、10位まで――アグネス・ラム、岡田 奈々、竹下 景子、秋吉 久美子、岩崎 宏美、榊原 郁恵。

和泉 雅子は、トップ・30にも入っていない。
森下 愛子は、29位。この女優は、最近、「プレイボ-イ」や「ドンドン」の、タイツ姿のフォトで人気が出はじめている。

NHKのタクシ-で帰宅するはずだったが、首都高速が凍結したという。仕方がない。お茶の水に出る。総武線も、幕張=新検見川間で故障が起きたとか。お茶の水は混雑してごった返していた。
「山ノ上」のバ-でひとりで新年を祝う。
帰宅、12時過ぎ。

 

 

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1978年1月4日(水)
田中 英道さんから賀状。「イザベッラ・デステ」に関して本を書く予定という。
いよいよイザベッラを射程内におさめたのか。

いつかイザベッラ・デステについて書きたいと思ってきた。資料も集めている。しかし、田中さんのようにすぐれた評論家に先を越されたら、こちらは何も書けなくなるだろう。
田中さんの「イザベッラ・デステ」の完成を祈る。そのうえで、まだ何ごとか書くべきことが残っているかどうか考えよう。

「テレビ朝日」から電話。出演交渉。「朝の美術散歩」。テ-マは、フランドル派の画家、ハンス・メムリンク。
フランドル派の画家についてほとんど知らない。プロデュ-サ-に、その旨をつたえた。それでも、会っていただけないか、という。
フランドルは、いわゆるフランダ-ス、ブラバント、ハイナウト、リエ-ジュ地方を含む。中世、文書の装飾がはじまったことから、絵画がはじまる。
1400年代までは、絵画として見るべきものもない。リンブルク兄弟、メルヒョ-ル・ブレ-デルラムといった職人画家がギルドに登場する。
ク-ベルト・ファン・アイク、ヤン・ファン・アイクがあらわれて、はじめてフランドル派の画家とされる。マイステル・フレマルは、ハイナウト出身、彼の門弟、トゥルナイのギエル・ファン・デル・ワイデンあたりをあげておけばいい。
このファン・デル・ワイデンの影響をうけたのが、ル-ヴァンのデイエリク・バウト、フル-ジュのハンス・メムリンク、ゲントのフ-ゴ-・ファン・デル・ゲスということになる。
私の知っていることは、せいぜいこんなところ。
中世の生活を語れば、いくらかでも責任は果たせるかも知れない。

年頭に決心したのだが――今年は、イタリア・ルネサンスについて、なんらかのモノグラフィ-を書くつもり。歴史をたどるのではない。その時代に生きた人々を描きだす。具体的には、1434年から、約60年に及ぶ時期の研究だが――むろん、私にとっては、たいへんな仕事になる。
1934年、フィレンツェ。コジモ・デ・メデイチが覇権をにぎる。1942年、アルフォンソ・ダラゴンが、ナポリで権力をにぎる。1450年、ミラ-ノで、フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎる。一方、ロ-マにあった教会は、ロマ-ニャの諸都市(コム-ネ)や封建領主たちを支配下におさめる。
この時代に、たとえばメディチ家の人々はどう生きたのか。考えるだけでも、私の手にあまるのだが。
まあ、正月の酒に酔いながら、壮大な夢をみるのも楽しい。

 

 

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1978年1月6日(金)
昨夜、新橋演舞場で公演していた「新派」の舞台で、花柳 喜章が亡くなった。享年、54歳。

新派は2日から初春公演が始まったが、喜章は、昼の部、「源氏物語」で「紀伊守」を演じ、3日からは喜劇、「浮気の手帖」の主役(インスタント食品会社の社長)を演じていた。劇場は、1500人の観客で満員だった。
幕が開いて、10分ばかり、「社長」が秘書にお小言を並べているところで、不意に頭が揺れ、うしろに倒れたという。死因は心不全というが、脳血栓かも知れない。
観客は、そういう演出と思って舞台を見ていたが、喜章が動かないので、ざわめきはじめ、劇場側も異変に気がついて、いそいで照明を消して緞帳を下ろした。
俳優の安井 昌二が、幕の前に出て、
「花柳が急病になりましたので、これから救急車で病院にまいります」
と口上を述べた。
舞台で倒れて、そのまま逝っちまった役者は、「戦後」では喜章がはじめてじゃないだろうか。観客ははじめて事情を知ってざわめいたが、それでも、しずかに退場しはじめたという。

私が、喜章を見たのは、3,4回だけだった。父の章太郎が亡くなったあと、「新派」を脱退したり舞い戻ったりして、どうも落ちつかない役者だった。昨年、章太郎十三回忌に出て、「新派」の中軸になるものとばかり思っていた。未完成のまま、亡くなったのは、本人としても残念だったはずである。

喜章の代役は、明日から菅原 謙次。

 

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1977年1月7日(土)
賀状がまだ届いている。
「日本きゃらばん」を読む。庄司 肇の「幻の街」がいい。

庄司 肇さんは、医師(眼科)だが、「文芸首都」出身。平易な文体で、小説はだいたい身辺雑記に近い。しかし、この作品は、なにかしら大きな発展の萌芽を感じさせる。庄司さんもまた、作家として大きく変わりつつあるのか。

 

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1977年1月8日(日)
アントワ-ヌ・ポロ-を読む。
いい本だった。フランスではこういう思想家がつぎからつぎに出てくる。
カイヨワの「メドゥサの仲間たち」も、いい本。仮面について見事な言及があった。

少しづつ、ルネサンス関連の資料を読みはじめる。
とにかく、読むべき本が多い。

 

 

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1977年1月9日(月)
「サンケイ」、四方 繁子さん。「共同通信」、戸部さんから督促。

今年も走りつづけなければならない。
自分の前に立ちあらわれてくるさまざまなテ-マを、デッサンかクロッキ-のようにとりあげる。そのなかには、文芸時評や、試写で見た映画の紹介や、楽しいアヴァンチュール、政治や社会についての考察、そんなものがふくまれる。どんなに短い枚数でも、読者の内面を刺激するように――私のものを読んだときから、しばらくは頭から離れないような文章をつきつける。発表する場所はどこでもいい。私のとりあげる内容がどんなにおもしろいものか、手を変え、品を変え、書いて行きたい。
どういう状況でも、私は散歩者であって、なおかつ冒険者でありたいのだ。

若城さんに、電話で年賀を伝える。この電話に鈴木 八郎が出た。ふたりは、本当の親友なので、鈴木君が電話に出ても不思議ではない。
声帯を手術したため、機械を使ってしゃべる。テレビのSF映画に出てくる宇宙人のような声だった。話すことは、例によって洒脱、滑稽。江戸時代だったら、鈴木 八郎はきっと有名な文人になれたと思う。

「映画ファン」、高田君、菅沼君から電話。