1792 〈1977年日記 39〉

1977年9月21日(水)
原稿を書くペ-スが遅くなっている。
今日は、石本がきてくれたが、「山と渓谷」の原稿がかけなかったので、そのまま帰ってもらった。

雑文ばかり書いていてもどうしようもないのだが。

 

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1977年9月21日(水)
夜、「シシリアン」を見た。フレンチ・ノワ-ル。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン。ジャン・ギャバンは、もう老齢といっていいのだが、俳優としては、円熟の境地にたっしている。これは驚くべきものだと思う。

 

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1977年9月22日(木)
朝、「山と渓谷」の原稿を書く。
石本がきてくれたので、そのまま待たせて、「日経」の原稿を1本書く。
原 耕平君が、原稿の依頼にくる。
5時、「週刊大衆」、渡辺君に原稿。

バ-に飾ってあった絵が全部はずしてある。裕人が、ここにステレオを持ち込んだので、絵をかざる場所がなくなった。これからは、書庫で仕事をしようか。
冬の書庫は寒いだろう。しかし、書庫に、スト-ヴ、小型テレビ、電話をいれれば、仕事場になる。

 

 

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1977年9月23日(金)
疲れている。腰の痛みはなくなったが、それでも右足になんとなく不安がある。
午前中、児玉さんに、電話をかけたが、不在。
午後は、仕事があるのに、何もする気にならない。大相撲を見ただけ。
夜、テレビで映画を見た。途中から見たので、題名がわからない。トレヴア-・ハワ-ド、リタ・ヘイワ-ス、マルチェロ・マストロヤンニたちが出ている。
国際的な麻薬組織を追う各国の警察の捜査活動を描いたもの。リタ・ヘイワ-スの疲れきった顔に驚いた。
たとえばアルツハイマ-症などで、少しづつ知力が失われて行って、それまでの自分がだんだん自分でなくなってゆく。
身近な人が誰なのかわからなくなる。おだやかな性格だったのに、やたらに怒りっぽくなったり、自分でも気がつかないうちに、自分らしさがなくなってしまう。
正常な人の場合でも、よく見られる現象だが、これが女優の場合だったら、たいへんな苦しみになる。リタの場合でいえば、「ギルダ」だった頃の自分は、もう現在の自分ではない。それでは、いつの時代の自分なのか。
女優は、別人になってしまった自分が、「ギルダ」としての自分を見せることに恐怖をおぼえないだろうか。そういう自分に気がつかないはずはない。周囲にどう見られるかわかっていながら、なおも女優であろうとする。それは、虚栄心だろうか。
私は、「巴里の空の下」に出たシルヴィ-や、「望郷」に出たフレェルをみたとき、美貌を誇った女優がいつしか老女になってしまう残酷さに、胸を打たれたことがあった。
いつか、そんなことを考えてみたいと思っている。

あとで、新聞で、「悪のシンフォニ-」というタイトルで、テレンス・ヤング監督と知った。国際的に知られた俳優がたくさん出ているのは、国連が後援したためらしい。

 

 

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1977年9月24日(土)
与野の高原君が、亡母、中田 宇免の焼香にきてくれた。

ご近所に彫刻家が住んでいる。吉原 和夫さん。
彼が、「新制作」に入選したという。
午後2時半、上野。「新制作展」に行く。
この「新制作展」で、友人、高橋 清さんの新作も見た。例によって、球体に、陰陽を形象したもの。

吉原 和夫さんの彫刻は、巨大な木彫のヌ-ド。両手両膝をついて、四つん這いのポ-ズ。ひどく不自然な姿勢だった。この木彫のすぐ近くに、ほとんどおなじポ-ズの石の彫刻があった。若い彫刻家はモデルにこういうポ-ズを強制するのだろうか。もっとも、この彫刻なら、モデルを使う必要もない。
吉原さんは才能はあるのだが、この木彫を見るかぎり、人気のある彫刻を作る気はないらしい。
「新制作展」のあと、「ミュンヘン近代美術展」を見た。こちらは、ストゥック、カンディンスキ-など。ただし、これとは別に心に残る作品もあった。ハ-バ-マンという画家の小品は、パスキンに似た色調と、モデルのポ-ジングで、私の好きなタイプのヌ-ドだった。私は、どういう国の美術館に行っても、小品でも1枚か2枚、自分の好きな作品を見つける。たいていの場合、カタログの隅っこに、短い解説が出ている程度の芸術家だが、有名な画家の大作ばかり見るよりも、こういう小品を発見すると、かえってその国の美術界のようすが想像できる様な気がする。
ハ-バ-マンという画家については何もわからない。しかし、ミュンヘンという都会の片隅で、こういう絵を描いていた画家がいたと思うだけでうれしくなる。

 

 

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1977年9月25日(日)
百合子が歯痛で苦しんでいる。
前から「大百堂」に治療を頼んでいたのに、治療に応じてくれなかった。このため、百合子は歯科医の娘なのに、虫歯を放置していた。
内山歯科に行ったのだが、処置がわるかったのか、歯齦が腫れて、さらに頬までひろがって顔半分がふくれあがった。日頃の美女が、おバケになってしまった。
冗談をいっている場合ではない。百合子が苦しんでいるのを見ていると、こちらまで苦しくなる。
内山歯科に相談に行った。たまたま、外出しようとしていた内山 清春先生と、歯科の前で会ったので百合子の病状を告げた。
内山さんは、私の岳父、湯浅 泰仁の教室にいて、しばらく「大百堂」の代診をつとめた。やがて、百合子の従妹と結婚したので、私にとっても親戚にあたる人だが、豪放磊落といった性格。明日、一番に診察してもらうことになった。

 

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1977年9月26日(月)
百合子の病状はいくらかよくなってきたが、顔の腫れはひかない。痛みのせいで、夜も眠れなかったらしい。夜中に、ピリン系の睡眠薬、「ビラビタ-ル」を1錠。
このため、手首や踵にかゆみがあらわれた。外から見ても発赤している。
百合子にとっては、まだ、つらい試練がつづいている。

昨日、内山歯科からの帰り、「そごう」の「東北物産展」で買ってきた福島のお菓子、アワビ弁当がおいしかった。
百合子は、朝から内山歯科に行った。付き添ってやるつもりだったが、ひとりで行くといって出かけた。途中で、誰かと会うのがいやだったのか。

「日経」、吉沢君。ラザ-ル・ベルマン(ソヴィェトのピアニスト)の演奏会に誘ってくれた。ピアノのヴィルトゥオ-ゾなのだから、ぜひ聞きに行きたい。
しかし、百合子のことが心配なので断った。
吉沢君はもとは音楽担当だったから、いい演奏家をよく聞いている。レコ-ドのコレクションも。

 

 

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1977年9月26日(月)
日本の過激派、「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、今日の午後、バングラデシュ/ダッカ空港に強行着陸した。

 

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1977年9月28日(水)
ミケランジェロ。
ラウレンティア-ナ図書館の設計を依頼された。
「建築は私の本領ではありませんが、最善をつくしましょう」
このことばに、ルネサンスの芸術家の自負、野心、堂々たる気概がこめられている。
建築だけを見ても――創造的であろうとする姿勢には、いつもさまざまなかたちで試行錯誤をくり返してきたミケランジェロの生きかたが重なっている。
今は美術館になっているが、ヴァザ-リの造ったウフィッツイ宮殿は、ルネサンス建築の最高の作品だろう。ここに現代イタリア・デザインのア-ムチェア、ソファ、タピッスリを置いても少しも不調和に見えない。

たとえば、サンドロ・キア、エンツィオ・クッキ、フランチェスコ・クレメンティといった芸術家の仕事を考える。いずれも、今や中堅から大家の列に並びつつある人たちで、トランス・アヴァンギャルドと呼ばれている。
この人たちの仕事や評価はまださだまってはいないが、シンプルな背景にグロテスクで具象的なイメ-ジを配置する「ニュ-・イメ-ジ・ペインティング」とおなじ傾向のものとみられている。
エンツィオ・クッキの作品に――ムンクふうの表情をもった男や女たちの顔が、黒い太陽に向かって流れてゆく、そんなイメ-ジのものがあった。今の時代の緊張、不安といったものを感じさせた。
フランチェスコ・クレメンティのヌ-ドは、どこかフランシス・ベ-コンを思わせるグロテスクなもの、これも時代の暗い状況を反映しているのか。
私は、オッタ-ヴィオ・マゾ-ニスのヌ-ドが好きなのだが、日本では見られない。

1791 〈1977年日記 38〉

 

1977年9月20日(火)

東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ-ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ-ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
「ディック」(ジョ-ジ・シ-ガル)と「ジェ-ン」(ジェ-ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
ジェ-ン・フォンダが、ホ-ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ-ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ-ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ-ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ-ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
ジェ-ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ-ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ-ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

ジェ-ン・フォンダが、最高に「ジェ-ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ-バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ-ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ-ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

「ジャ-マン・ベ-カリ-」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ-マルシェの評伝など。
帰宅。ジョン・ト-ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル-ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。

 

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1977年9月21日(水)

午後2時半、「ジャ-マン・ベ-カリ-」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
下沢君といっしょに「ワ-ナ-」に行く。「ビバ・ニ-ベル」(ゴ-ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ-サ-、「イ-ビル・クニ-ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ-ズを作ったが、あのシリ-ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
と聞く。
何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
「これから、行くの、お通夜に?」
「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
え、今 東光が亡くなったのか。
「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
私は答えた。
私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
「ありがと。助かったよ」
といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
もう秋だなあ。
暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
スズキ シン一は、マリリン・モンロ-のヌ-ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ-、「あくね」に行った。

私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
みんなが信じなかった。
前に、スズキ シン一をこのバ-につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

 

 

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