1785 〈1977年日記 32〉

1977年8月2日(日)

今日は、福岡 徹(富安 徹太郎)さんの命日。
昨夜、献花を届けておいた。早いもので、もう三回忌になる。
福岡さんは、産婦人科医で、本業のかたわら小説を書いていた。おなじように、医師(眼科医)の庄司 肇さんとおなじ「文芸首都」出身の作家。
主著は、日露戦争で、旅順口で戦った乃木 希典の評伝、「軍神」(「文春」)。ほかに「未来喪失」という短編集など。

「未来喪失」が出たとき、庄司 肇が批評しているが、

医者の小説書きというのは、以外に多いものなのですが、それらの人々は、不思
議と二つの群にわかれるようです。つまり、はなはだ医者的な小説を書く人と、
医者のそぶりさえ見せない人との、極端な二組にわかれるのです。福岡さんは、
あきらかに前者で、この五つの作品の主要人物は、すべて、医者、あるいは、看
護婦であり、物語の内容も、それにまつわるものばかりです。

という。
これで思い出したが――おもしろい資料があるので、ここに書きとめておく。

野田在住の医師(内科)、宗谷 真爾さんは、庄司 肇さん、福岡 徹さんとおなじ「文芸首都」出身の作家で、「野田文学」という同人誌を主催していた。
それこそ、「医者のそぶりさえ見せない作家」で、のちにカンボジアに旅行して、アンコ-ル・ワットの歴史、といったモノグラフィ-を発表したが、作家としては夭折した。

「未来喪失」の出版記念会で、宗谷 真爾さんがスピ-チをする予定だった。
おなじ千葉県在住の友人の出版記念会なので、ぜひ出席しなければならない、と思った宗谷さんは、午後休診にして、昼食をとるのももどかしく家を出た。野田から千葉までは、かなりの距離がある。宗谷さんは、息せききって電車にとび乗った。船橋で国電(JR)に乗り換えたが、これが準急で、福岡さんの病院がある西千葉は素通り。仕方がないので、一駅先の千葉で降りた。

千葉にきてしまったからには、ここからの方が会場に近かろうと思いなおし、発
起人の一人になっていた中田 耕治氏に、いっしょにいこうと誘いかけるつもり
で電話したら、奥さんが電話口に出た。
「中田はいま、単身ヴェトナムにおもむいておりまして……」
私が代わりにまいりますが、まだ福岡さんを存じあげていない。会場で失礼があっ
てはならないから紹介してほしいと言う。ヴェトナムでビックリしたうえに、留
守をあずかる令閨の賢夫人ぶりに二度ビックリ。
(「城砦」18号・1965年5月)

1965年、私は妻の百合子のすすめもあってヴェトナムに行った。当時、ヴェトナム戦争が続いていた。
私は、この春休みを利用してサイゴンに飛んだ。

サイゴンにいた私は――福岡さんの出版記念会が催されることは知っていたが、出席できる状況ではなかった。私の代理で、妻の百合子が代わりに出席してくれたが、この出版記念会のようすは、妻がエア・メ-ルで知らせてくれた。これと重なって、友人の作家、山川 方夫が交通事故で不慮の死を遂げた。これも、百合子はこまかく報告して、私のかわりに弔電を打ってくれたのだった。
12年前の夏であった。

私は、ヴェトナムに行ってから自分でも変わったと思う。内面的に変化を経験したのだった。

福岡さんのことから、いろいろと思い出した。