1784 〈1977年日記 31〉

 

1977年8月1日(土)

朝、若城 希伊子さんに電話。

今後、「小説と詩と評論」とは絶縁するという。日頃、温厚な若城さんが、こうまでいうのだから、よほど不愉快なことがあったのだろう。

若城 希伊子さんは、最近まで、鎌倉で「源氏物語」の講義をつづけていた。ところが、さる上流夫人が、この集まりに参加して、表面は若城さんの講義に傾倒するように見せかけながら、ひそかに若城さんを追放して別の講師を招く画策をはじめた。この夫人の意向を受けた森 志斐子(同人雑誌作家)が若城さん追い出しに動いたという。
若城さんは、晩年の折口 信夫に教えを受けた人で、大学で「源氏物語」を講義するほどの教養と実力がある。森 志斐子ごときの指弾を受けるような人ではない。しかし、森一派の動きの結果、若城さんは、鎌倉での「源氏物語」の講義を断念したという。

森 志斐子がどういう女性なのか、私は知らない。一度だけ面語の機会を得たことがある。
作家というふれ込みで、本人は作家気どりだったが、世間的に知られているわけでもない。たしか、自費出版で、小説を一、二冊出していたはずである。
私の見た森 志斐子は、美人だが、高慢な女性だった。
誰が紹介してくれたのか、もうおぼえていない。林 峻一郎(木々 高太郎の令息)だったような気がする。はじめて会った私に、横柄な口のききかたで、
・・・あなた、どこで書いているの?
と聞いた。私は、とっさにどういう意味だろうと思って、
・・・「え」と聞き返した。
・・・同人雑誌よ。どこに所属しているの?
・・・別に、どこにも所属しておりませんが。
私をどこかの同人雑誌作家と見たようだった。(私は戦後、「近代文学」の同人だった時期があるが、「近代文学」に所属していたとはいえない。)
森 志斐子は、しげしげと私の顔を見た。
どこの同人雑誌にも属していないのに、「小説と詩と評論」の集まりに顔を出している。多分、「小説と詩と評論」に参加したがっている文学中年と見たのだろう。
・・何か書いたら、見てあげるわよ。

私は、いろいろな場所、いろいろな機会に、こういう種類の女をよく見かけたものだった。ある劇団の付属養成所の研究生で、私を相手にスタニスラフスキ-について一席ぶった女もいた。(あとで、私がその養成所の講師と知ったらしく、私の前に二度と顔を出さなかった。)ある日、私に面会を求めた若い女がいた。翻訳家を志望している、という。
初対面の私の前で平気で足を組んで、タバコをくゆらせながら、「なんか仕事させてくんない?」と、ヌカした。
世間はさまざま、女もいろいろ。

森 志斐子はそれっきり私に口をきかなかった。知りあっても得にならない人種と見たらしい。私ははじめから森 志斐子に関心もなかった。同人雑誌によく見かける「策謀家」(ストラテジスト)にすぎない。
「源氏物語」の講義をつづけている講師をタ-ゲットに何かよからぬことを企んで、追い落とすぐらいのことはやりそうな女。これが私の印象だった。

このあと、若城さんは、お互いに共通の友人、鈴木 八郎の病状を教えてくれた。喉頭ガンで、手術をした。本人は、ガンとは知らされず、声帯のポリ-プの手術と信じているという。可哀そうに。
鈴木 八郎は、戦後、「劇作」の会で、内村 直也さんが紹介してくれた。
芝居の見巧者で、歌舞伎、新派、新劇もよく見ていた。一部で知られていた三好 いっこう(作家)の親友で、劇壇について知らないことは何もないほどの事情通だった。本人は男色者(ペデ)だったが、それを隠さなかった。
劇作家志望で、西島 大、若城 希伊子たちといっしょに勉強していた。
なかなかの実力もあって、いつも戯曲を書いていたが、いつも特殊なテ-マを選ぶので、ほとんど発表されることがなかった。