1977年7月31日(日)
30日正午、新宿集合。
何時もは、早朝に集まったが、今回は20名のメンバ-が、正午に集まるのだから、規模もちがう。
安東 由利子、Y.T.が、プラットフォ-ムで待っていた。ぞくぞくとメンバ-が集まってくる。リ-ダ-たちは、沼田 馨(双葉社)、長谷川 裕(二見書房)、安東夫妻、吉沢 正英、石井 秀明。
学生の中に、三ツ谷 雄二がいる。電車が入線すると、みんながゾロゾロつながって席をとる。ほかの列車も、登山者がいっせいに乗り込む。
はじめは、まるで遠足気分。
「学寮」は長野の県境にある。私たちは、バスを利用しなかったので、麓から「学寮」まで歩きつづけた。山歩きになれないメンバ-の訓練も目的で、みんなで山肌をあえぎながら登って行った。夕方になっても、私たちのパ-ティ-はゆっくり進んで行く。
こういうパ-ティ-は、あまりいなかったらしく、「学寮」側は私たちの到着が遅いので、心配したらしい。
天気の変化も懸念された。突然、はげしい雷鳴と、稲妻をともなった夕立がくることもめずらしくない。
夕暮れの、薄れた日ざしがぐんぐん下の道に消えて行って、山道がかすんで白っぼく見えた。と、前方、山道を下りてくるトラックが見えた。
「学寮」のトラックだった。私たちの到着が遅いので、途中で動けなくなったのではないか、と心配してくれたらしい。
私は夜になって「学寮」に着けばいいと思っていたが、「学寮」側が心配してトラックを出してくれたのだから、好意に感謝した。
トラックの運転手は、沼田君、長谷川君、吉沢君、安東夫妻、石井君の登山靴を見て、安心したようだった。みんな、登山のベテランらしいスタイルなので。
私は、学生たちといっしょに、トラックの荷台に乗せてもらうことにした。
学生たちはみんな歓声をあげた。
「学寮」に着いた時間が遅かったため、入浴もできず、食事をしただけだった。「学寮」としては、私たちが20名を越えるパ-ティ-なので、食事をキャンセルされたら困ると思ったらしい。明日の朝食を用意してもらうことにした。
全員を集会室に集めて、明日の行動計画をつたえる。
そのあと、「学寮」の庭の奥で、花火。みんなが、少年少女に返って、花火を楽しんでいる。この花火は私が用意したもの。
こんな登山になるとは、誰も思わなかったにちがいない。
私たち以外に、別のグル-プが、キャンプ・ファイア-をしていた。
就寝時間。私は先生なので、別の部屋で休んだが――深夜、隣りの部屋に泊まった教師たちが、ウイスキ-か何かをのみはじめて、ダベッている。それが耳について、眠れなかった。この連中は、法学部の教授、助教授らしい。話の内容は、学内の人事に対する不満だった。
あとで知ったのだが、安東 由利子が抗議したらしい。やっと、酒宴が終わった。
3時半、起床。どうやら、みんなよく眠れなかったらしい。私たち(吉沢、石井、安東のチ-ム)なら、そのまま予定の行動をとってもいいのだが、初心者が参加しているのだから、予定を変えなければならない。
私は、吉沢君に「渋ノ湯」と伝えた。すぐに了解してくれた。
「渋ノ湯」で、私は入浴した。またしても、私のサ-プライズ。これが私流の登山なのだ。あまり長く温泉につかっていると、湯疲れする。だから、汗をながすだけの入湯ということになる。
あとは、高見石をめざす。
高見石から、コ-スはきつくなる。
「稲子の湯」に着いたときは、さすがに疲れが出た。
硫黄のきつい泉質だった。
学生の山田君が、気分がわるいという。すぐに休ませた。
彼は三年。話を聞くと、権現から赤岳に出たい、とか、高見石からは、中山峠を越えて小天狗のコ-スがいい、などといっていた。私は、この学生が登山の経験をつんできたものと信じたが、あとで聞きただしたところ、去年の秋から山に登っていないという。私は、またしても、自分の至らなさに腹が立った。
しかし、山田を残して、プランを進めるわけにはいかない。
「稲子の湯」の主人の弟をつかまえて、マイクロバスで松原湖まで送ってくれないか、と交渉した。故障者が出なければ小淵沢に出るところだが、それは考えられない。
松原湖から小諸に出る。急行で上野に。
たまには、こんな登山をするのもいいや。
帰りは、席が空いていたので、Y.T.とすわった。私は、しばらく眠ったが、Y.T.は眠れなかったらしい。秋葉原で皆と別れた。私は、桜井といっしょに総武線に。