77年7月11日(月)
9日から、「国立近代美術館」で、戦争を描いた美術作品がひっそりと公開された。いまさら戦争画などを見てどうするのか、という思いはあったが、太平洋戦争の記録という意味で見ておきたかった。
はじめて公開された戦争画は4点。
清水 登之 「工兵隊架橋作業」(戦時特別文展・陸軍省特別出品)1944年
中村 研一 「コタ・バル」(第一回大東亜戦争美術展・1942年)
藤田 嗣治 「ハルハ河畔戦闘図」(第二回聖戦美術展・1941年)
宮本 三郎 「山下・パ-シバル両中将会見図・(第一回大東亜戦争美術展・1942年)
私は、あくまで美術作品として見た。この4点はそれぞれすぐれた絵として保存すべきだと考える。
画壇では、戦争を描いたから「戦犯」、描かなかったから「戦争反対」と、画家を裁断する気風があるらしいが、こうした批判は、あまりにも単純すぎる。これらの絵は戦争を記録した絵画として冷静に見てしかるべきもの、同時に、それぞれ真摯に戦争に向かいあった芸術家の仕事として評価すべきものと考える。
藤田 嗣治の絵は「ガダルカナル」の兵士を描いた一枚にはおよばないと思う。宮本 三郎の絵は写真をみて描いたと思われるが、開戦そうそうの熱狂的な気分と、「戦後」の、山下大将の戦犯裁判を思い出して、深い感慨にとらえられた。
いい絵はいい、というべきだろう。
77年7月12日(火)
この1週間、東奔西走していた。
7日、8日とつづけて、「太田区民センタ-」で講義。(「メディチ家の歴史」。最後なので、「メディチ家」をとりあげた。10日、安東、吉沢君といっしょに大カラス。新人として、鈴木 和子、野村 由美子。11日、「国立近代美術館」。私は、少年時代に友人だった前田 恵二郎、木村 利治、金子 富雄たちのことを思い出しながら見た。
みんな、戦争の被害者だった。
原稿は、「三笠書房」、「週刊サンケイ」、連載の分。
その間に、杉崎女史がアメリカに行った。10日、私は不在だったが、夫君といっしょにわが家に来訪。百合子が応対した。私はおふたりの来訪にほんとうに恐縮した。
今日は、井上 篤夫、本戸 淳子に会って、原書をわたした。ふたりとも、優秀な翻訳家である。
大学。前期の最終講義。これで、やっと、まとまった仕事にとりかかれる。
選挙は自民党が過半数を維持した。
社共が後退したのりは当然といえるだろう。これで、成田・石橋体制は転換することになる。宮本 顕治はあらためて自分の不人気に気がつくだろう。
77年7月13日(水)
きびしい暑さ。梅雨あけ。
A・サマ-ズ、T・マンゴ-ルドの「ロマノフ家の最後」を読みはじめたが、面白くて、途中でやめられなくなった。おかげで、石本に渡す原稿が書けなかった。
ロシア革命は、私にとって大きな関心の一つ。ロマノフ家の悲運も、いつか真剣に追求したいテ-マなのだ。E・H・カ-を読んで、ロマノフ家に関心をもったが、やがてコリン・ウィルソンの「ラスプ-チン」を読んで、少し方向が変わってきた。
私は、ひそかにステファン・ツヴァイクを目標にしているのだが、「ラスプ-チン」を読んで、コリン・ウィルソンも意識するようになった。