1776 〈1977年日記 23〉

77年7月3日(日)

昨日、今日と、むし暑い日がつづく。日帰りでもいいから、山に行けばよかった。なんとなく、元気がない。

この日記は、身辺のことを書くつもりだが、できれば映画やテレビのことも書きとめておきたい。ほとんどの映画やテレビ番組は、いくら記憶力がよくても、いずれは忘れてしまう。しかし、それを見たときの衝撃、感動、あるいは、もの書きとしてどう生きようか、といった懐疑や、迷妄は心に残るだろうと思う。いつか、この日記を読み返したときに、何かを思い出すよすがとしても書いておいたほうがいい。

先月のBBCのドキュメンタリ、「ミサイル兵器」が心に残っている。
現代の戦争は、第2次大戦までの戦争形態を一変させる。すべてコンピュ-タ制禦なので、兵士が塹壕に伏せて、敵兵を狙撃するような戦闘ではない。ずらりと並んだコンピュ-タが、数十キロ離れた敵の部隊の動きを感知すると、別のコンピュ-タが、ただちにその規模、行動の目的を判断して、ミサイル基地に連絡する。基地のコンピュ-タが、攻撃のサインを出す。そして、敵軍は潰滅的な被害を受ける。

このドキュメンタリでは、大陸間弾道弾はとりあげられない。もっと小規模な地対空、空対艦ミサイルが、つぎつぎに紹介される。イギリス制作なので、イギリス艦隊の演習が出てくる。たとえば駆逐艦の砲撃は、まるっきりSFといっていい。
艦橋や砲塔に誰もいない。兵員は、全員、放射能から身をまもるための防護服、マスク、手袋をつけて、吃水線の下に位置する気密室にたてこもる。そこにあるのは、レ-ダ-と、コンピュ-タ-だけ。
敵の潜水艦が魚雷攻撃をしかけてきたら、どうやって応戦するのだろう。

もっと慄然とするのは、このドキュメンタリに出てくる兵器が、もはや「過去」のものだということ。こうして兵器化された瞬間から、「現在」は「次に」移っている。つまり、このドキュメンタリに出てくるミサイルは、もうスクラップなのだ、ということ。
矛と盾の原則は、厳然として私たちの前に立っている。そのどちらの能力も限界はなく、際限もない軍備拡張がつづく。このおそろしい現実に慄然とする。

サイゴン陥落以後、しばらく途絶えていたヴェトナム難民が急増しているらしい。
小舟に乗って、南シナ海に漕ぎ出し、外国船の救助を待ったり、東南アジアのどこか、あるいはオ-ストラリアに漂着する。
もし、捕らえられたら、反革命分子として終身刑。
最近は、脱出をはかっても5隻中の4隻までが、当局の沿岸警備艇にダ捕される状況らしい。こうした危険を冒しても、ヴェトナム難民が国外脱出をはかる理由は想像がつく。
社会主義政策の破綻もあるだろう。とくに、都市生活者を農村に下放する政策が失敗している。すでに毛 沢東が失敗している政策を踏襲しても、無理にきまっている。
北部山岳地帯、中部高原、メコン・デルタに、それぞれ新経済圏を建設するために、政府は移住者に対して、住居、診療所、灌漑などを整備していると伝えられるが、実際には、電気も、ガスも、水道さえもないので、一種の棄民政策になっている。これもNHKのテレビ・ドキュメンタリで描かれていた。
ヴェトナム人民軍の機関紙、「クァンドイ・ニャンザン」は、中部、ダラトの北方と、西部の高原地帯で、4000~5000の旧政府軍の兵士が、現在も人民軍と散発的に戦闘をつづけていることをはじめて報じた。
幕末、奥州同盟が官軍に敗れた。このとき幕兵が五稜郭に集結したようなものか。この敗残兵はいずれ掃討されるだろうが、さらに一部は武装ゲリラとして活動をつづけるかも知れない。ヴェトナム戦争はまだ終わっていない。
ヴェトナムのゲリラと、ラオスの反政府ゲリラとは性格がちがう。メオ族、旧政府軍に対して、アメリカのCIA、タイの政府、軍部が何らかの援助をあたえていることは、公然の秘密になっている。最近の報道では・・・ラオスでは、ビエンチャンからの13号線のうち、ルアン・ブラパンに到る北部は、メオ族によって寸断されている。パクサン、タケクに到る南は、旧政府軍によって分断されている。
反政府ゲリラが活発化しているのは、経済政策の失敗、生産性のいちじるしい低下、きびしい政治教育に対する人心の離反に原因する。

私はヴェトナムに行ったことがある。アオザイを着た娘たちのことが忘れられない。そんな薄弱な理由から、ヴェトナムの「現在」に無関心ではいられない。