1775 〈1977年日記 22〉

77年7月1日(金)

昨日は、連載の3回目と、「映画ファン」の原稿を書いた。石本君にきてもらって、吉沢君のデスクに原稿を届けさせるつもりだったが、吉沢君はしびれを切らしたのか、直接わが家にやってきた。
大工や左官がいっぱいいるなかで、吉沢君を相手に、この夏はやはりジョ-ジ・ロイ・ヒル(「スティング」の監督)だね、などと話す。
あと、目ぼしいものとしては、イタリア映画の「スキャンダル」(サルバト-レ・サンペリ監督)か、フランス映画のジャック・ドワロンあたりか。
「スカラ座」で「ロ-マの休日」の最後のロ-ドショ-。オ-ドリ-・ヘップバ-ンも、しばらくは見られなくなる。

まだ、咳が残って、不調がつづいている。「ロ-マの休日」を見に行くどころではない。日記も書けなかった。28日は、めずらしく大学を休講して、「太田区民センタ-」で講義。この日は、風邪の影響で、吉沢君にわたす原稿も書けず、吉沢君が「区民センタ-」まで連絡してきたほどだった。このところ、めずらしくスランプ。
「太田区民センタ-」の講義は、人文地理(慶応・文学部教授、西岡 秀雄)、経済学(山崎 安世)、文学(勝又 浩)、法律学(明治・助教授、河合 研一)、西洋文化史(中田 耕治)という科目で、なかなか充実した内容だった。
初講義は、風邪のせいで、あまり調子がよくなかったと思う。それに、西洋文化史といっても、ごく大まかな展望を述べて、ルネッサンスに入ってゆくのだから、まるで軽業のようなものになる。
私のテ-マは――芸術というものは、継続的な、ダイナミックなプロセスであって、たえず新しい思想と形式を発展させることによって変化する価値観を反映する。
ごくありきたりなテ-ゼだが、講義だけで説明するのはむずかしかった。たとえば、ギリシャ人の生活と思想に明らかに認められる中庸と調和は、ギリシャの建築や彫刻に見られる抑制、単純性にあらわれる。そんなことを語るより、パルテノンや、ニケ、アクロポリスの門などの写真を見せるほうがいい。
スライドのようなものを用意すればよかった、と思ったが、あとの祭。

講義を終えたあと、いつもなら受講生たちをひきつれて、近くの喫茶店や居酒屋でワイワイ騒ぐのだが、蒲田の町ははじめてだったし、聴講生の多くは中年のオバサマなので、一人で町歩き。この日はひどく暑かったし、疲れてもいた。蒲田じゅうを歩いて、銭湯を見つけた。山歩きのあと麓のひなびた温泉宿で一風呂浴びるような気分で、入浴。すっかり元気になった。

 

 

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77年7月2日(土)

少し無理したような気がする。咳をすると、血痰が出るようになった。気管支炎を起こしたらしい。風邪をひくと、こういうふうに長びいてしまうのは、やはり肺病をやったせいなのか。
昨日、清水 徹さんから、「読書のユ-トピア」を贈られた。さっそく、読みはじめたが、不調のせいか、いっきに読みあげることができなかった。
内野 登喜和、R.K.から電話。内野さんの電話で、K.M.は離婚した。その後、再婚したが、その夫とは死別したと知って、暗然とした。

午後3時、「むさしの」で、R.K.と会う。小説を書きたいと希望している。40代。少しからだがよわいらしい。本人いわく、自律神経失調症なんです。おそらくノイロ-ゼだろう。6時、「ジュン」で飲む。
なかなかおもしろい女性だが、うっかり深入りすると火傷を負うだろう。(その後、2度と彼女と会わなかった。)