1977年6月10日(金)
思いがけない話から、頭のなかはロシアのことばかり。
ロシアは、革命60周年をむかえるにあたって、スタ-リン憲法に変わる新憲法の草案を発表した。
この草案で――市民の基本的な権利の拡大、とくに国家や公共機関の行動に対する異議申し立ての権利がうたわれているが、ロシアには市民の基本的な権利などどこにもなかったし、60年にわたって国家や公共機関の圧制に市民がおびえてきたことが見えてくる。
ボドゴルヌイ(最高会議/幹部会議長)が解任された。それと同時に、この最高会議に第一副議長というポジションが新設された。なんでもない組織改革に見えるが、ブレジネフが国家元首に相当する幹部会議長に就任するという含みが隠されているらしい。
松下 泰子という人の「子どものモスクワ」を読む。モスクワの日常がよくわかる。
ソヴィェトの教育制度や、病院、避暑地の設備がよく整っていることも、この本から想像できた。この本のいちばんすばらしいところは――「友子」ちゃんという子どもがモスクワの環境に適応して、のびのびと育って行く姿が描かれているあたり。
この本と、内村 剛介の「ロシア風物誌」をあわせて読むと、それこそロシアの光と影が見えてくる。
ロシア語の勉強をしたいと思う。
1977年6月11日(土)
頭痛。ロシア語の勉強をしようなどと殊勝な気を起こしたせいか。
もともと語学の勉強に向いていないのだから、せめて努力するしかない。語学が好きで、スラスラ読めるようになる人が羨ましい。
昨夜、テレビで「ジャクリ-ン・ケネデイ・オナシス」という番組を見た。ピ-タ-・ロ-フォ-ドが解説で、ひたすらジャクリ-ンを礼賛していた。私は、ピ-タ-・ロ-フォ-ドという人物をまったく信用していない。こんな人物に語られるジャクリ-ン・ケネデイに同情したが、ジャクリ-ンは、いつか、もっと真摯な研究家によって評伝が書かれるだろう。
夜中の2時半、ハワイにいる百合子に電話をかけた。現地は、朝の6時前という。
ア-ムストロング・カレッジから、エリカの成績表が届いて、24点中、22点で優秀だったことをつたえる。
私が、ソヴィェト「作家同盟」の招待を受けるかも知れないこともつたえた。百合子は声をはずませて、よろこんでくれた。
1977年6月12日(日)
例によって、6時半。みんなと待ち合わせ。
安東たちが30分も遅れた。これで、最初の予定を変更する。参加者は8名。
途中、サブが道を間違えたため、少し戻った。12時半にキャンプ地に着く。
火を焚いて、みんなで食事。安東はウィスキ-を飲んだが、私は飲まなかった。登山をストイックに考えるからではなく、私が酔ったら、みんなに迷惑をかけるからだった。私はすぐに寝てしまった。
朝、4時半に起きる。
食欲はない。ティ-とビスケットだけ。すぐに歩く。
やがて、くろぐろとした彼方に、茜色の明るさが萌してくる。朝もやがかかっている。
御来迎である。厳粛で、しかも透明な朝。
歩きつづけるうちに、東の山脈(やまなみ)では、朝焼けの雲がつぎつぎと形を変え、刻一刻と、朝の空気がみちてくるようだった。あとは朝の太陽が山の端の一角から、最初の光を投げてくればいい。
この日、Y.T.の不調に気がついた。睡眠不足だろう。私は彼女のうしろについて、できるだけ、カヴァ-することにした。この程度のコ-スなら大丈夫と判断したのだが、夜のビバ-クはまだ無理だったかも知れない。
今回の登山は、出発が遅くなったこともあって、どうも失敗だったな、と思う。
Y.T.の不調も、もう少し早く気がつくべきだった。途中、「若きハイデルベルヒ」を見に行きたい、などと話していたので、元気だと思っていた(注)。私は自責感にとらわれていた。
(注) 原作・マイヤ-フエルスタ-。石原 慎太郎作、松浦 竹夫演出。ミュージカル。
8月、「日生劇場」。中村 勘九郎、大竹 しのぶ。