1977年6月7日(水)
朝、4時に起きて本を読む。
裕人をつれて、有楽町、読売ホ-ルに行く。「遠すぎた橋」の試写。試写室ではないのに、多数の映画評論家、作家たちがきている。
第2次大戦のヨ-ロッパ、連合軍のノルマンデ-上陸後、オランダのア-ンヘムに空挺部隊が降下し、国境の橋を奪取しようとして失敗した。映画は3時間の大作。ジ-ン・ハックマン、ロバ-ト・レッドフォ-ドほか、十数人のスタ-が出ているのだが、映画としては空虚な大作だった。おなじように戦争を描いたサム・ペキンパ-の「戦争のはらわた」などにおよばない。
「週刊大衆」の渡辺君に会ったので、連載のテ-マは「沖田 総司」にきめたとつたえた。渡辺君は、そんなことはどうでもいいといった態度だった。
「双葉社」では、鈴木、梶浦、北原君たち、さらには吉田君、堤君といろいろな編集者とつきあってきたが、渡辺君はこれまでの編集者とまったくちがったタイプ。まったく、やる気がない。原稿の内容などはどうでもいい、作家は自分の勤務時間内に原稿をわたしてくれればいい、という。
こんな編集者を相手にして、しばらく連載を書く。
1977年6月8日(木)
毎朝、早くから眼がさめるので、つい起きてしまう。起きれば、すぐに本を読む。むずかしい本を読むと、自分の力不足を感じてしまう。レ-ダ-の「マキャヴェッリ」を読んで、ヴィラ-リを利用していることはわかるのだが、ヴィラ-リをどう使っているのか、批評的に読むことがむずかしい。こちらに、素養、学問がないせいだろうと思う。
「集英社」、永田君が「メディチ家」のコピ-を送ってくれた。ありがたい。もう少しのびやかに書ければいいのだが、どうしても気負いがあって、どこか苦しげに見える。
1977年6月9日(金)
午前11時、「文芸家協会」、平山さんから電話。
ソヴィェトの作家同盟が招待する作家の派遣に私が応じるかどうか。思いがけない打診だった。
即答できなかった。こういう話は、まず百合子に相談するのだが、アメリカに行っているので、相談したくても相談できない。
折りもおり新しい連載がはじまる。もし、昨日、ソヴィェト行きの話があったなら、私は連載を断念していたにちがいない。
一方、「文芸家協会」が私を選んでくれるのであれば、よろこんで承知したいと思った。願ってもないことではないか。胸がおどった。
むろん、私が立候補したところで、すぐに確定するわけではない。あくまで、ソヴィェト行きの意向を表明したというだけのことなのだから。
とりあえず、返事は留保しておいた。
すぐに、小泉 賀江のところに行った。
簡単に事情を説明した。
賀江はすぐに賛成してくれた。「すごい話じゃないの。せっかく、ご招待してくださるのなら、ぜひにも行ったほうがいいわ」
私は、賀江がよろこんでくれたので、安心したのだった。
つぎに、小川 茂久に電話した。もし、ソヴィェト旅行がきまったら大学の講義を休まなければない。一ヵ月、休講となったら、大学としても補講を考えなければならないだろう。
続いて、「文芸家協会」の井口君に電話をかけた。今回、ソヴィェト派遣に立候補している人たちは誰なのか知りたかった。
高杉 一郎、高井 有一、加賀 乙彦、西尾 幹二などの名をあげた。誰が選ばれてもおかしくない。この顔ぶれでは、私は辞退したほうがいい。
しかし、私の内面には、別の思いがあった。百合子なら、どう思うだろうか。賀江とおなじように、即座に、
「行ったほうがいいわ」
と答えるにちがいない。
私がヴェトナムに行ったときも百合子にすすめられたからだった。
夜、「日経」の吉沢 正英君から書評の依頼。辻 邦生の「春の戴冠」。
夜、ジャン・ブリュアの「ソヴィェト連邦史」を読みはじめた。