1977年5月28日
午前中、いささか二日酔いめいた気分だった。
残った原稿を書く。
夕方、すっかり元気になっていた。
7時10分、新宿着。いつものメンバ-が待っていた。吉沢君、安東 由利子、石井秀明、坂牧、妹尾のほかに、椎名君がガ-ルフレンドをつれてきた。登山の経験はあるという。
塩山に着いたが、バスがなかった。やむを得ない。山楽荘までタクシ-で行く。ところが、ここでも別の「問題」が待っていた。土曜日なので、山楽荘にはアベックが何組か入って満室。主人が恐縮して、近くの民宿に案内してくれた。
1977年5月29日
4時に起きた。10分後には出発していた。
土、日なので、かなり登山者が多いと覚悟したが、どうやら私の判断は誤っていた。塩山から車の流れがつづいていたし、夜明けなのにたいへんな数の登山者がぞくぞくと歩いている。
私はコ-スの途中で、プランの変更を決心した。こうなったら、ふつうの登山者が通らないコ-スを歩くしかない。ガイドブックに出ていない道をさがせばいい。私は、地図上で廃道になっている道をさがした。私は破線のついていない道を歩くことにきめたのだった。むずかしいコ-スだが、吉沢君は、沢のル-トの専門家だったし、石井君は自衛隊の出身で、ル-ト・ファインディングは得意だったし、安東君は大学の山岳部員として、経験を積んできたベテランだった。
私たちは、やがて、誰も通らない道をたどりはじめた。ふつう長兵衛小屋まで1時間のコ-スだが、私たちは、3時間もかけて登った。途中、なんどかロ-プを使ったが、ほかの登山者たちにまったく会わずに登りつづけた。
最後に、堰堤めがけて、まっしぐらに直登した。このコ-スは、なかなかスリルがあって、私たちは満足したのだった。
長兵衛小屋はひどく混雑していたので、その近くで昼食をとった。そのあと、大菩薩に登る必要はなかった。帰りも、ふつうのコ-スを避けて、砥川峠の古山道をめざした。これもふつうの登山者がえらばないコ-スで、私たちがこの山道を選んだのはよかったと判断した。
私たちの登山は、だいたいいつもこんなものなのである。