1766 〈1977年日記 13〉

 

1977年5月23日

12時半、「ジャ-マン・ベ-カリ-」に行く。

1時、「ヤマハ」で、「ブラック・サンダー」The Legend of Nigger Charley/マ-ティン・ゴ-ルドマン監督)を見た。どうも前に見たような感じだった。冷酷な農園の監督を殺して、黒人奴隷が逃亡する。途中で、かなり前に読んだ小説の映画化とわかった。あまりたくさん、アメリカの小説を読んでいると、原作者の名前も思い出さなくなる。スト-リ-も、しばらくするとおぼえていなくなる。
たまたま小野 耕世さんと会ったので、原作について少し話した。原作者はジェ-ムズ・ペラ-だそうな。「ああ、あれか」私は、本の表紙を思い出した。
ちょうど剣術の達人の立会いのようなもので、一瞬で、原作の内容や、作中人物について、お互いに理解しあう。植草 甚一さんなら、たちまち原作のスト-リ-を話しはじめるところだが。
「ルノワ-ル」で、「週刊小説」の土屋君に原稿をわたした。いつもなら、古書をあさったり、新着の雑誌を手にとって内容によっては買ったり買わなかったり。
今日は、すぐに「サンケイ」に飛んで行って、文化部のデスクで書評の原稿を書く。

 

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1977年5月24日

 昨日は、神田に出られなかったので、今日は半日かけて本をあさった。
ジャン・オルトの「カルテルの演劇」を見つけた。ルイ・ジュヴェの資料になる。こんな本が人目につかない棚にころがっているのだから、うれしくなる。いつか、ルイ・ジュヴェについて書いてみたい。むろん、私の手にあまるテ-マなので、こんな本でもじっくり読むことにしよう。
ほかに、ケンブリッジ版の「ルネサンス史」、「宗教改革史」。
神保町の郵便局から、本を送る。
夜は、久しぶりに「弓月」に行く。小川 茂久に会う。

小川 茂久は、私の親友。大学の同期。
1944年、明治大学文科文芸科に入学。戦時中、勤労動員で、いっしょに働いた。その後、小川は、大学の助手になったが、私はもの書きになった。やがて、小川は仏文科の教授になり、私は日本文学科の講師になった。
小川は、2年前から、仏文科、専攻、主任教授になっている。酒豪で、私は、二部(夜間)の講義のあと、彼と落ちあっては、「あくね」、「弓月」といった旗亭で、酒を酌み交わした。お互いに、たいした話をするでもなく、ただ、共通の友人たちのこと、お互いに読んでいる文学作品のことなどを話題にしながら、酒を飲むだけだが、小川は、信じられないほど気くばりが行き届き、面倒見のいい人物だった。

少年時代からのつきあいなので、お互いに気心は知れているし、小川はもの書きの苦労も察してくれていたと思う。他人にはいえないことも、お互いにうちあけることがあって、大学で顔を合わせただけで、その日、どこで飲むか了解するようなつきあいだった。

この日、私は終電。小川は新宿で飲みあかしたらしい。