昨年からしばらく、休筆をつづけていた。友人に手紙も書かなかったし、ブログさえ書く気が起きなかった。
「孤独に耐えて生きて行く」といった、しっかりした信念があったわけではなくて、ただ、何もする気がなく、本を読んだり、昔見た映画を見直したり。
ようするに、毎日、無為に過ごしていたのだった。
私がブログを書かなくなったのは――悼亡、喪に服しているために書かなくなったわけではなく、そもそも書こうという意欲が消えたからだった。親しい知人たちも、そんな私の状況を察して、暑中見舞いも遠慮しているようだった。
中には、私の沈黙を心配して、手紙で「しゃきっとしなければと」と忠告してくれた人もいる。そうしたことばをありがたく頂戴しながら、毎日、無為に過ごしていた。
そして、11月、私を励ます意味で、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとが集まってくれた。私は、これでなんとか元気になれたような気がする。
何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?)
よく知っているはずの人名が出てこない。
知っている漢字が書けない。
ここまでくると、私の記憶喪失は、サフランでも飲まなければいけないかも。
高齢で、血液や尿のAGE濃度が高い人は、脳の認知機能の喪失がだんだん加速化するおそれがある。さらには、アルツハイマ-病の患者たちの脳内もAGEが高いことが多い、そうな。(ついでに言及するのだが、神崎 朗子の訳は名訳だった。)
マイケル・グレガ-著、神崎 朗子訳
「食事のせいで、死なないために」(病気別編)
NHK出版 2017.8.25刊 P.125
このブログは、忘れたことを思い出して書くことにしよう。あるいは、何かを忘れる前に、書きとめておくことにするか。