1746 原 民喜 (2)

これもまたザンキの至りだが、私は、自作、「おお季節よ 城よ」のなかで、原 民喜についてふれている。

原さんが自殺する十日ばかり前に、「三田文学」の集まりがあって、この席で、私は原 民喜に会っている。(「おお季節よ 城よ」のなかでは、「三週間ばかり前に」原 民喜に会っている、と書いているが、今回、竹原さんの「年譜」を拝見して、私が原 民喜に最後に会ったのは原さんが自殺する十日ばかり前だったと思うようになった。)

この集まりの出席者は、慶応出身の文学者ばかりだった。
私は慶応出身ではなかったが、内村 直也、遠藤 周作と親しかったおかげで、「三田文学」の集まりによく出席していた。出席者はいつも30人から40人、いずれも名だたる作家、評論家が多かったが、とてもいい雰囲気で、私のような「よそもの」も肩身の狭い思いをしないですんだ。
堅苦しい集まりではなく、各自が自由にテ-ブルを移って、それぞれが小さなグル-プに分かれて語りあう明るい雰囲気の集まりだった。
ふと、気がついたのだが、原さんが片隅にいた誰かの後ろに立って、その両肩に手をおいていた。(原さんが誰の肩に手を置いたのか、おぼえていない。)

やがて、めいめいがテ-ブルから離れて、小さなグル-プに別れはじめたが、それまで片隅にいた原 民喜がいつの間にか私のところに寄ってきた。そのまま黙って私の左の肩に手をかけた。
原 民喜は寡黙というより失語症と言ったほうが適切なほど無口で、こうした集まりでも人の話を黙って聞いているだけだった。私が眼をあげたとき、原は私の顔を見ずにそのまま私の左の肩にそっと手を置いていた。不思議なことをするなあ、と私は思った。ことさら私に用事があるふうでもなかった。ただ黙って私のうしろにきて、肩に手をかけて、私が近くにいた誰かと話をしているのを聞いているだけだった。

原さんが私の肩に手をかけていたのは、ほんの三、四分だったに違いない。そのまますっと離れると、七、八人おいて、別のテ-ブルにいた誰かの後ろに立った。
やはり、静かに両手をその肩にそっと乗せているのだった。

その人は詩人の藤島 宇内だった。

 

image