思いがけない人の来訪をうけた。
詩人の野木 京子さん、そして広島在住の竹原 陽子さんのおふたり。
野木 京子さんは、「H氏賞」を受けた詩人で、原 民喜に関するエッセイを書いているひと。私のクラスにいて、しばらく勉強なさった。
竹原 陽子さんは、「原民喜 全詩集」(岩波文庫)に、綿密、詳細な原民喜略年譜を作成している研究家である。
おふたりとも熱心な原 民喜研究家なので、私が生前の原 民喜と面識があったため、何か原 民喜にかかわりのある話でもあれば聞きたいということだった。
私の話など、原 民喜研究に役立つとも思えないのだが、できればおふたりの熱意に応えたいと思った。
まず、原 民喜の経歴を説明しておこう。
1905年(明治38年)、広島に生まれた。詩人、作家。
1932年(昭和7年)、慶応大英文卒。
1933年(昭和8年)、永井 貞恵と結婚した。「戦後」、評論家として知られる佐々木 基一の姉にあたる。永井 貞恵は1944年(昭和19年)、肺結核が悪化して亡くなった。翌年、1945年(昭和20年)8月、広島で原爆被災。この体験が「夏の花」に描かれている。
1951年(昭和26年)3月13日、自殺した。享年、45歳。
彼の「墓碑銘」を引用しておこう。
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻
私は広島に行ったときこの「墓碑銘」を前にして、在りし日の原さんを偲んだことがあった。大きな記念碑が立ち並ぶなかに、ひどく小ぶりな「墓碑」は詩人の声を私たちにつたえている。
野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪については、もう少し説明が必要かも知れない。
じつは、昨年、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)というドキュメンタリ映画が制作されたが、その映画の中で、私も原 民喜の思い出を語っている。(2017年5月・公開)
このドキュメンタリをごらんになった竹原さんは、旧知の野木 京子さんを介して、私に連絡なさったのだった。
若い頃の私は、原 民喜が編集していた「三田文学」に原稿を書くことが多かった。というより、原 民喜が書く機会をあたえてくれたのだった。
当時の原 民喜にあてた私の手紙数通が、広島市の中央図書館に残されているとかで、竹原さんはわざわざそのコピ-を私にわたしてくださった。
最初のハガキに昭和22年(1947年)10月19日の消印があり、35銭の切手が貼ってある。じつに、70年の歳月をへだてて、若き日の私自身のハガキを見たことになる。
自分のハガキを目にしたとき、私はほとんど狼狽した。
まったく無名なのに、歴史ある「三田文学」に文芸時評を書くという、おのれの無恥、驕慢にあきれた。これはもう身のほど知らずとしかいいようがない。
そうした恥ずかしさと重なって、当時の私が考えもしなかった、無名の私にあえて原稿を書かせてくれた原 民喜に迷惑をかけてしまった、そんな思いが押し寄せてきた。穴があったら入りたい気分であった。